西ローマ帝国の皇帝ホノリウスによるラヴェンナ遷都西暦395年、古代ローマ帝国の皇帝テオドシウス1世(大帝)が亡くなり、その遺言に従って帝国が東西に二分され、東ローマ帝国の皇帝にはアルカディウスが、西ローマ帝国の皇帝にはその弟で10歳のホノリウスが即位した。これが古代ローマ帝国の東西分裂だった。それから7年後の西暦402年、ゲルマン系の西ゴート族がイタリアに侵入してきた。西暦286年にディオクレティアヌス帝によって西ローマ帝国の首都となっていたミラノは西ゴート族に包囲された。そんな状況で皇帝ホノリウスは、西ローマ帝国の首都をラヴェンナに移している。
このラヴェンナは今でこそ内陸にあるけれども、かつては海辺の街だった。その街外れのクラッセ地区には、かつて古代ローマ帝国の軍港もあったそうな。そんなラヴェンナを拠点にすれば、海路を通じて東ローマ帝国の支援を得ることもたやすいと考えたみたい。
イタリアに侵入した西ゴート族によるローマ略奪そんなこんなで西ローマ帝国の皇帝ホノリウスは、守りに適したラヴェンナの街に軍と共に閉じこもってしまった。でも、皇帝が引きこもりになり、しかも有力な将軍スティリコを西暦408年に処刑してしまったものだから、侵入してきた西ゴート族にイタリアが蹂躙されてしまった。
ラヴェンナに籠城する皇帝を横目にイタリアを南下した西ゴート族の王アラリック1世の軍は、ローマの街を包囲する。やがて西暦410年にはローマの守りが破られ、西ゴート族の兵士たちによってローマは略奪されてしまった。(上の画像は古代ローマの遺跡が残るフォロ・ロマーノの中心カピトリーノの丘の様子。)
西ローマ帝国によるブリテン(イギリス)の放棄古代ローマ帝国は西暦43年にブリテン(イギリス)に進出し、ロンディニウム(今のイギリスの首都ロンドン)を建設している。その後の古代ローマ帝国はウェールズやヨークにまで進出し、スコットランドとの境界にはハドリアヌスの長城(城壁)を築くに至ったわけだ。ところが、次第に弱体化した帝国はブリテン(イギリス)から多くの兵をヨーロッパ大陸に移動させ、ブリテンの守りは弱体化していった。そして西暦410年、アングロ・サクソン人などの襲撃に苦しむブリテンは、皇帝ホノリウスに救援軍の派遣を要請した。でも、西ローマ帝国は救援軍をブリテンに派遣することができなかったんだ。
結局、皇帝ホノリウスの西ローマ帝国はブリテン支配を放棄せざるを得なかった。その後のブリテンではアングロ・サクソン人やケルト系ブリトン人たちが争いを繰り広げていくわけだ。(上の画像はイングランド南部のペヴェンシーにある古代ローマ帝国時代の古城の跡。)
西ローマ帝国の悲劇の皇女ガッラ・プラキディア皇帝ホノリウスの妹にして西ローマ帝国の皇女にガッラ・プラキディアがいた。皇帝ホノリウスがラヴェンナに籠城している時、彼女はローマにいたらしい。そのローマを行為した西ゴート族の軍によって皇女はガリア(今のフランス)に連れ去られてしまった。その後の皇女ガッラ・プラキディアは混乱する西ローマ帝国と同様に運命に翻弄されている。やがて西ゴートからイタリアに解放されたけれども、二度の結婚と死別、異母兄ホノリウス帝から逃れてコンスタンティノープルに脱出したこともあった。
そんな悲劇の皇女ガッラ・プラキディアの廟が古都ラヴェンナに残されている。上の画像はその廟の中にあるモザイク画「水盤から水を飲む鳩」なんだけど、魂の渇きを潤おすことを意味しているらしい。悲劇に翻弄された皇女に癒しをもたらすモザイク画だったのかな。(ちなみに、この廟は皇女自身が建てさせたけれども、彼女の遺骸はここではなくローマのサン・ピエトロ大聖堂の近くに葬られたとされている。)
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