スイス・アルプスの平和な風景と戦士たちスイスといえば永世中立国。つまり、世界平和の象徴といっても良い存在だよね。しかも、アルプスの麓に広がる村々の風景(下の画像)は、アルプスの少女ハイジの世界そのままに、のどかで平和に見えるよね。ところが、こののどかな村々に住む人々は、実はとっても手ごわい戦士たちなんだ。ロッシーニのオペラ(歌劇)の主役となっているウィリアム・テルはそのシンボルだよね。 歴史を振り返ればフランス王ルイ16世とマリー・アントワネットを守ろうとしたスイス衛兵の例もあれば、現在もイタリアの首都ローマにあるヴァティカンを警護しているのはスイス衛兵なんだ。 そんなヨーロッパでも知られた戦士であるスイスの人々を敵に回して苦労したのが、中世のオーストリア大公位を獲得して間もないハプスブルク家だった。 ハプスブルク家とスイス同盟軍との戦い西暦1308年、ハプスブルク家出身の二人目の神聖ローマ皇帝アルブレヒト1世が暗殺された。その前の年には、ボヘミア(現チェコ)の王となっていたアルブレヒト1世の息子ルドルフも亡くなっていた。スイスの伯爵家だったハプスブルク家が神聖ローマ皇帝の位を得て、しかもオーストリア大公位まで獲得しちゃったものだから、ドイツの諸侯は反発していたんだ。ボヘミア王位も神聖ローマ皇帝位も、フランス王家と親戚だったルクセンブルク家の手に移ってしまった。 なんとか勢力を挽回し、神聖ローマ皇帝位を取り返そうとするハプスブルク家。しかし、その足許をすくったのは、ハプスブルク家の本来の拠点だったスイスだった。西暦1315年、ハプスブルク家の軍が、独立を勝ち取ろうとしていたスイス同盟軍に敗れてしまった。 ハプスブルク家の雌伏の時代スイス同盟軍に敗れたハプスブルク家の苦闘は更に続いた。西暦1322年、ハプスブルク家のフリードリヒ3世美公が、バイエルンのルートヴィヒ4世に敗れて捕らえられてしまったんだ。その結果、神聖ローマ皇帝位を目指すレースから、ハプスブルク家は完全に脱落してしまった。西暦1330年、ハプスブルク家のオーストリア大公となったアルブレヒト2世は、政策転換を行い、神聖ローマ皇帝やルクセンブルク家のボヘミア王と和解を行った。他方で、スイスに代わる本拠地になろうとしていたオーストリアの発展に取り組んだんだ。 ところが、ハプスブルク家を新たな苦難が待ち受けていた。西暦1348年から1349年に架けて、オーストリアを黒死病(ペスト)が襲い、その発展は停滞してしまった。(右の画像はオーストリアの首都ウィーンにあるペスト記念柱。) 他方、ボヘミア王にして神聖ローマ皇帝たるルクセンブルク家のカール4世(カレル1世)は、神聖ローマ皇帝選出の資格を持つ選帝侯から、オーストリア大公(つまりハプスブルク家)を排除してしまった。 ハプスブルク家のルドルフ4世建設公そんな不利な状況の中で、ハプスブルク家のオーストリア大公として西暦1358年に即位したのが、建設公とも称されるルドルフ4世だった。ルドルフ4世は、オーストリアの首都ウィーンにあるシュテファン大聖堂(下の画像)を再建し、またウィーン大学を創設するなど、オーストリア大公領内の発展に取り組んだんだ。 また、ルドルフ4世はチロル地方を獲得している。更に有能な人材をスタッフとして集めたルドルフ4世は、神聖ローマ帝国から自立したオーストリア大公領の建設を目指していたんだそうな。 再びスイス同盟軍に敗北ところが、西暦1365年、オーストリアの発展に取り組んでいたルドルフ4世が亡くなった。ハプスブルク家の領地であるオーストリアは、ルドルフ4世の二人の息子たちによって共同統治されることとなった。そして西暦1386年、ハプスブルク家の後継者の一人だったレオポルト3世が再びスイス同盟軍に敗れて戦死し、スイスは実質的に独立を獲得してしまった。ハプスブルク家の飛躍には、まだしばらくの時間が必要だった。
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