教皇とフランス王とが対立してアナーニ事件14世紀初頭、フランスとイギリスが長く戦い続けた百年戦争はまだ始まっていなかった。でも、ベルギー方面に勢力を伸ばそうと考えていたフランス王フィリップ4世は、邪魔になるイギリスとの戦争を計画しており、その為に教会に税金を課すことにしたらしい。ところが、イタリアのローマに拠点を置く教皇ボニファティウス8世は、教会に税金を課すなんてとんでもないとして、フランス王の教会に対する課税を禁止したんだ。
教皇の措置に納得できないフランス王は、西暦1302年にフランスの首都パリにあるシテ島のノートルダム大聖堂(上の画像はその内部)で三部会を開催した。その三部会に参加した聖職者、貴族、平民はいずれもフランス王フィリップ4世に支持を与えた。その結果、フランス王は教皇に対して強硬な態度を採ることが可能になったんだ。
教皇のアヴィニョン捕囚(あるいは教皇のバビロン捕囚)教皇ボニファティウス8世の死後、次の教皇に選ばれたのはフランス人のクレメンス5世だった。その教皇クレメンス5世は、フランス王フィリップ4世の要望に従い、ローマの教皇庁をフランス南部プロヴァンス地方の街アヴィニョンに移している。それが西暦1308年のことだった。
次いで西暦1309年には、正式に教皇座がアヴィニョンに置かれることになった。というわけで、教皇のアヴィニョン捕囚がその年から始まったとされるわけだ。(上の画像は教皇宮殿のテラスから眺めたアヴィニョンの街。)
その後の教皇のアヴィニョン捕囚と教会大分裂13世紀前半のアルビジョア十字軍において、フランス王ルイ8世が西暦1326年にアヴィニョンの街を攻略している。でも、このアヴィニョンの街はプロヴァンス伯の領地だった。そして西暦1348年、教皇クレメンス6世はプロヴァンス女伯ジョヴァンナからアヴィニョンの街を買い取っている。以後はアヴィニョンの街は教皇領の一部となったわけだ。でも、西暦1377年には教皇グレゴリウス11世はアヴィニョンの街からローマに戻っていったんだ。ここで教皇のアヴィニョン捕囚は終わったということになる。でも、その翌年に教皇グレゴリウス11世が亡くなり、ウルバヌス6世が次の教皇に選ばれた。 ところが、フランス人の枢機卿たちは、ウルバヌス6世の教皇選出に不満だったらしい。対抗して独自にクレメンス7世を選出し、教皇クレメンス7世はアヴィニョンに教皇庁を置いたんだそうな。(下の画像は今もアヴィニョンの街に残る教皇宮殿の入り口。)
そんなわけで、ローマにいる教皇とアヴィニョンにいる教皇の二人が並び立つ教会大分裂(シスマ)が始まってしまった。そんな状況を解決すべく、イタリアのピサで公会議が開催され、新たな教皇アレクサンデル5世が選出されたのが西暦1409年のこと。
アヴィニョンの教皇の置き土産 シャトーヌフ・デュ・パープのワイン教皇がアヴィニョンに残した教皇宮殿やサン・ベネゼ橋などが多くの観光客を呼び寄せているんだけど、他にもアヴィニョンの教皇がフランスに残した重要な置き土産がある。それがシャトーヌフ・デュ・パープの赤ワインだね。アヴィニョン捕囚時代の2代目の教皇であるヨハネス22世が、アヴィニョンからローヌ川を25kmほど遡ったあたりのブドウ畑を開発した。ついでにその畑に新しい城も築いた。というわけで、そのあたりの畑のブドウから作られるのが名高いワイン「シャトーヌフ・デュ・パープ(教皇の新しい城)」というわけだ。
アヴィニョン市内やその周辺のワイン屋さんなどに入れば、そんな教皇の置き土産シャトーヌフ・デュ・パープの赤ワインを試飲させてくれるんだ。但し、さすがに名高いシャトーウンフ・デュ・パープのワインは最後に登場する。それまでにいくつかの白ワインなどを試飲してから、最後に登場する主役を飲むことができるんだ。
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