聖ヨハネ騎士団とエーゲ海に浮かぶロードス島西暦1291年、エジプトを支配していたマムルーク朝の軍がアッカ(アッコン)を攻略し、聖地における十字軍の最後の拠点が失われた。聖地で活動していた聖ヨハネ騎士団(あるいはホスピタル騎士団)はとりあえずキプロス島などに拠点を置き、新たな本拠とすべき場所を求め始めた。
そんな聖ヨハネ騎士団がビザンティン帝国の勢力圏にあったロードス島に兵力を上陸させたのが西暦1306年のことだった。上の画像はロードス島の北部の海辺の風景なんだけど、海の向こうにはトルコ領となっている小アジアの山々が見えている。(この地理的な位置が以後のロードス島と聖ヨハネ騎士団の運命に大きな影響を与えることになる。)
聖ヨハネ騎士団の新しい本拠エーゲ海に浮かぶロードス島に部隊を展開した聖ヨハネ騎士団は、西暦1308年には島全体を制圧したらしい。その翌年にはローマ教皇クレメンス5世によって騎士団による島の領有が認められている。
かくしてロードス島を獲得した聖ヨハネ騎士団は、ここを新たな本拠とした。上の画像はそんな騎士団が島の中心都市ロードスに建てた騎士団長宮殿の様子なんだ。但し、19世紀に起きた火薬庫の爆発によって元々の騎士団長宮殿は大破してしまった。今の宮殿は20世紀になって島を占領したイタリアによって再建されたものなんだそうな。
聖ヨハネ騎士団とイスラムとの戦いエーゲ海に浮かぶロードス島を新しい本拠地とした聖ヨハネ騎士団は、ガレー船を連ねて出撃し、周囲のイスラム教徒との戦いを続けていった。その結果、周囲のイスラム勢力からの攻撃を警戒すべき状況となる。というわけで、騎士団はロードスの街の守りを強化している。ロードスの街の周囲にはビザンティン帝国が築いた城壁があったんだけど、その城壁を騎士団は更に増強したらしい。(下の画像はロードスの街の海側の城壁の様子。)
周囲のイスラム勢力から敵視されていた聖ヨハネ騎士団のロードス島に対して、まずは西暦1444年にエジプトの艦隊が攻撃をしかけている。更に西暦1480年にはオスマン・トルコが大軍を上陸させてきた。騎士団はいずれの攻撃も撃ち破ることに成功したんだけどね。
その後のロードス島と聖ヨハネ騎士団聖ヨハネ騎士団はロードスの街の城壁や城門などを更に強化しただけではない。島の各地の守りも増強しているんだ。例えば、島の南部にあるリンドスの街のアクロポリスも、下の画像のように要塞化している。
しかし、イスラム勢力の中でもオスマン・トルコは急激に勢力を強めていった。しかも、このページの冒頭の画像にも見えるように、トルコの支配する小アジアはロードス島の北、ほんの20kmほどのところにある。そして西暦1522年のオスマン・トルコによるロードス島侵攻によって、聖ヨハネ騎士団は撤退を余儀なくされたわけだ。
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