ボヘミア(チェコ)王にして神聖ローマ皇帝カレル4世神聖ローマ帝国の皇帝といえば、ハプスブルク家を思い出す人が多いかな。ボヘミア(チェコ)といっても、ハプスブルク家の領土だったと思うだけの人もいるかもしれないね。でも、中世においては、必ずしもそうではないんだ。特に14世紀においては、スイス同盟軍に敗れたハプスブルク家はまだ雌伏の時期だったからね。他方で、ハプスブルク家の出身ではなく、西暦1346年にボヘミア王となり、西暦1355年には神聖ローマ帝国の皇帝となった人物もいる。それがルクセンブルク家出身のカレル4世(ボヘミア王としてはカレル1世)。(下の画像はプラハ城(チェコ)で見たカレル4世の浮き彫り。) ボヘミア(チェコ)王カレル1世の誕生西暦1316年5月14日、ルクセンブルク家出身のボヘミア王ヨハンに王子が誕生した。それが後のカレル4世だった。西暦1323年、現代ならば小学校に入ったばかりの年齢の王子カレルはフランスの首都パリへ行き、フランス王の宮廷に出入りすることとなった。元々はルクセンブルク出身のボヘミア王家は、フランス王家と親しい関係にあったんだ。 西暦1330年、父王ヨハンは王子カレルをフランスから呼び戻した。しかし、西暦1335年に王子カレルは父王から追放されている。 そして西暦1341年、再び父王に呼び戻された王子カレルは、西暦1343年には王位継承者となった。 西暦1346年、百年戦争を戦っていたフランス軍が、クレシーにおいてイギリス軍とぶつかった。そのフランス軍の中には、ボヘミア王ヨハンも加わっていたんだ。 そしてフランス軍の歴史に残る大敗。戦死者の中にはボヘミア王ヨハンも入っていた。その結果、ルクセンブルク家の王位継承者がボヘミア王カレル1世として即位したわけだ。 右の画像は、モルダウ川(ヴルダヴァ川)にかかるカレル橋のたもとに立つボヘミア王カレル1世(皇帝としてはカレル4世)の像。 ドイツ王・神聖ローマ皇帝カレル4世ボヘミア王カレル1世は、南ドイツ諸邦に特権を約束して支持を取り付けた。更に、外交的手腕を以てボヘミア王カレル1世はドイツ北部の諸侯とも友好的な関係を確立した。その結果、カレル1世はドイツ王にも即位することが出来たわけだ。以後も彼は外交的な手腕を発揮して中世ヨーロッパで勢力を拡大していくことになる。彼は文化面でも多くの貢献を行っている。例えば、西暦1348年には中欧で最も古いプラハ大学(カレル大学)を設立しているんだ。また彼はプラハの発展にも功績を残している。例えばプラハ城を現在の姿に改築し、モルダウ川(ヴルダヴァ川)にかかる現在のカレル橋を架けさせたのも彼だった。 外交や文化に秀でた君主だからといって、彼が文弱だったともいえない。西暦1354年には軍を率いてイタリアに入り、ルクセンブルク家の権威の確立に努めている。そして西暦1355年には、イタリアの中心ローマにおいて神聖ローマ帝国の皇帝カレル4世として戴冠を果たしたんだ。 後に大きな影響を残した金印勅書神聖ローマ皇帝となった翌年の西暦1356年、カレル4世は後世に多大な影響を及ぼした重大な書類に署名している。それが「金印勅書」なんだ。金印勅書において、神聖ローマ帝国皇帝の選出の方法が定められ、特権を持つ選帝侯が選出されたんだ。その結果、後世のハプスブルク家の皇帝たちは苦労することになったわけだ。 ボヘミア王・神聖ローマ皇帝カレル4世の死西暦1378年11月29日、ボヘミア王・神聖ローマ皇帝カレル4世がボヘミア(チェコ)のプラハにおいて亡くなった。カレル4世の遺体は、彼自身が改築を行ったプラハ城の中にある聖ヴィート教会の中に葬られた。(下の画像は、モルダウ川越しに見るプラハ城の夜景。)
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