ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1431年、百年戦争中のフランスを救った少女ジャンヌ・ダルクが、異端の罪によって処刑された。


捕えられ異端の罪で処刑されたジャンヌ・ダルク

フランスの首都パリのシテ島のノートルダム大聖堂にあるジャンヌ・ダルク像 イングランドに攻囲されたオルレアンを解放したジャンヌ・ダルク。フランス王シャルル7世をランスで戴冠させたジャンヌ・ダルク。そのジャンヌ・ダルクが西暦1430年にブルゴーニュ軍に捕われてしまった。

イングランド軍は大金を支払ってブルゴーニュ軍からジャンヌ・ダルクの引渡を受けた。そして西暦1431年にはジャンヌ・ダルクに対する異端の裁判が始まった。

その裁判はイングランド軍の支配下にあったフランス北部ノルマンディーの街ルーアンで行われ、もちろんイングランドの圧力に置かれていた。

その異端裁判においては、ジャンヌ・ダルクが聴いたサン・ミシェルたち天使のお告げは、森の精霊のものだったとされたらしい。

そんな異端裁判の判決により、西暦1431年5月、ジャンヌ・ダルクは異端の罪で処刑されたんだ。(右の画像はフランスの首都パリノートルダム大聖堂にあるジャンヌ・ダルクの像。)

百年戦争のその後、フランスの勝利

フランスの救世主だったジャンヌ・ダルクを処刑したイングランド軍は、直ちにフランス軍に対して攻勢をかけたらしい。ノルマンディーにおいては、前年の西暦1430年にフランス軍によって攻略されていた要衝ガイヤール城(下の画像)を奪還している。

フランス北部ノルマンディーの要衝ガイヤール城

更に、その年の12月には、フランスの首都パリのノートルダム大聖堂でイングランド王ヘンリー6世をフランス王として戴冠させている。

西暦1433年にはイングランド軍はフランス北部のモン・サン・ミシェルを攻囲したんだ。西暦1424年のモン・サン・ミシェル攻囲と同様に攻略できずに失敗に終わったんだけどね。

しかし、上に書いたガイヤール城は西暦1449年には再びフランス軍に奪われてしまった。そして翌年にはフランス北部ノルマンディー地方全土をフランス軍が奪還したらしい。

更には西暦1453年にはフランス南西部ギュイエンヌ地方の中心都市ボルドーもフランス軍が攻略し、ここにフランスとイングランドとの間の百年戦争が終わったわけだ。(ボルドーを中心とするギュイエンヌ地方は、百年戦争勃発の契機の一つでもあった。)

百年戦争に敗れたイングランドではばら戦争が始まり、フランス王ともなったランカスター家のイングランド王ヘンリー6世は、ロンドンにあるロンドン塔に幽閉されて亡くなっているんだ。

フランスを救ったオルレアンの少女ジャンヌ・ダルクの復権

他方、異端の罪によって処刑されたジャンヌ・ダルクの母親は、西暦1455年にパリのノートルダム大聖堂でローマ教皇の使者に対して、娘の異端の罪を取り消すように要望した。(下の画像は、そのパリのシテ島にあるノートルダム大聖堂のバラ窓のステンド・グラス。)

フランスの首都パリのシテ島のノートルダム大聖堂のバラ窓のステンド・グラス

そして翌年の西暦1456年、ジャンヌ・ダルクが処刑されたフランス北部ノルマンディー地方のルーアンにおいて、異端裁判の判決が破棄されたらしい。

それから500年近くが経った西暦1909年、パリのノートルダム大聖堂において、ジャンヌ・ダルクがローマ・カトリックの福者とされたんだ。

ローマ・カトリックの聖者とされたジャンヌ・ダルク

更には西暦1920年、イタリアの首都ローマヴァティカンにあるサン・ピエトロ大聖堂(下の画像)において、ジャンヌ・ダルクがローマ・カトリックの聖者とされている。

イタリアの首都ローマのヴァティカンにあるサン・ピエトロ大聖堂を遠望

聖ジャンヌ・ダルクは、パリのモンマルトルの丘で処刑されたサン・ドニ(聖ドニ)と同じく、フランスの守護聖人となっている。

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