ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1430年、ブルゴーニュ公フィリップ善良公がブラバント公国(今のベルギーなどの一部)を相続した。


ベルギーの首都ブリュッセルの広場グラン・プラス

下の画像はベルギー首都ブリュッセルの広場グラン・プラスの夜景なんだけど、ベルギーでも人気の観光地の筆頭かもしれないね。美味しいレストランも周囲にあるし、良かれ悪しかれブリュッセル名物の小便小僧と小便小娘も近いからね。

ベルギーの首都ブリュッセルのグラン・プラスの夜景

でも、このグラン・プラスの最大の魅力は今も残る中世の面影かもしれないね。ここにはフランス東部ブルゴーニュ地方を基盤として今のベルギーやオランダまで進出してきたブルゴーニュ公家、それを継承したハプスブルク皇帝家にゆかりの場所なんだ。

ブラバント公国を相続したブルゴーニュ公フィリップ善良公

元々ブルゴーニュ公国はカペー家のブルゴーニュ公の所領だった。でも、そのカペー系ブルゴーニュ公家が断絶し、ブルゴーニュ公国はフランス王ジャン2世に帰属することとなったわけだ。そのジャン2世は後にロンドンで亡くなるんだけど、その前に息子を新たにブルゴーニュ公フィリップ豪胆公としている。このフィリップ豪胆公がヴァロワ家系ブルゴーニュ公家の初代というわけだ。

そのブルゴーニュ公フィリップ豪胆公は西暦1369年にマルグリット・ド・ダンピエールと結婚した。このマルグリットは最後のカペー家系ブルゴーニュ公と結婚していたんだけど、既に未亡人になっていた。そして再び新たなヴァロワ家系ブルゴーニュ公と再婚したというわけだ。

でも、このブルゴーニュ公フィリップ豪胆公がマルグリット・ド・ダンピエールと結婚したことが、ヴァロワ家系ブルゴーニュ公家のベルギー・オランダ方面への進出の足がかりとなったんだ。

まず西暦1384年にはマルグリットの父のフランドル伯ルイ2世(ルイ・ド・マール)が亡くなった。息子たちは既に亡くなっており、唯一の相続人である娘のマルグリットとその夫であるブルゴーニュ公フィリップ豪胆公がフランドル伯領を相続したわけだ。

またブルゴーニュ公妃マルグリットの母の姉はブラバント女公ジャンヌだった。彼女は近隣の領主と対立していたんだけど、ブルゴーニュ公フィリップ善良公はブラバント女公を軍事的に支援したらしい。そのブラバント女公ジャンヌが西暦1404年に亡くなり、ブラバント公国を相続したのは彼女の姪の息子、つまりブルゴーニュ公フィリップ豪胆公の息子のアントワーヌだった。

ブラバント公アントワーヌの遺産を相続したのは二人の息子だった。でも、兄のジャン4世は西暦1427年に、弟のフィリップ・ド・サン・ポルは西暦1430年に亡くなった。その結果、ブラバント公国を含む彼らの財産は唯一の親族である従兄のブルゴーニュ公フィリップ善良公が相続したわけだ。

同じような名前があちこちで登場してややこしいから、ちょいと補足説明。このブラバント公国を西暦1430年に相続したブルゴーニュ公フィリップ善良公はヴァロワ家系ブルゴーニュ公家の3代目にあたる。同じ名前の初代ヴァロワ家系ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公の孫というわけだね。

ベルギーの首都ブリュッセルのグラン・プラスと市庁舎

上の画像はブリュッセルの広場グラン・プラスにある市庁舎なんだけど、ブルゴーニュ公がブラバント公国を継承した西暦1430年にはまだ建設工事の最中だった。この市庁舎の右側部分の礎石を置いたのは、ブルゴーニュ公の息子(後のブルゴーニュ公シャルル突進公)だったそうな。

ブルゴーニュ公家の断絶とハプスブルク皇帝家

ところが、西暦1477年にそのヴァロワ家系ブルゴーニュ公家の4代目のシャルル突進公が戦死してしまった。先にハプスブルク家から買い取ったアルザス地方に隣接するロレーヌ地方の街ナンシーの近くでのことだった。

シャルル突進公には男子は無く、唯一の相続人が娘のマリー・ド・ブルゴーニュだけだった。そんなブルゴーニュ公家の遺産を狙ったのがフランス王ルイ11世だった。でも、マリー・ド・ブルゴーニュはハプスブルク皇帝家のマクシミリアン(やがて神聖ローマ帝国皇帝となる)と結婚し、フランス王に対抗したんだ。

西暦1483年にはフランス王家とハプスブルク皇帝家がアラス条約を結び、旧ブルゴーニュ公国の処理について合意が成立し、このブリュッセルを中心とするブラバント公国を含む今のベルギーやオランダなどの地域はハプスブルク皇帝家が獲得している。

そんなブラバント公国で西暦1500年に男の子が生まれた。マリー・ド・ブルゴーニュとマクシミリアンの孫にあたる彼は、やがてハプスブルク皇帝家の当主となり、スペイン王にして神聖ローマ帝国皇帝カール5世となる。

ベルギーの首都ブリュッセルのグラン・プラスにある王の家

上の画像の右側に見えている建物は、かつてカール5世がブラバント公国の政庁を置いたことから、「公の家」と呼ばれていた。でも、彼がスペイン王となった時から「王の家」と呼ばれるようになったんだそうな。ベルギーの首都ブリュッセルのグラン・プラスにある建物の一つだね。

但し、この「王の家」は西暦1875年に再建されたもの。西暦1695年にフランス王ルイ14世太陽王の軍がアウクスブルク同盟戦争の際にブリュッセルを砲撃し、グラン・プラス周辺の建物が破壊されたんだそうな。

カルヴァン派とオランダの独立

そんなこんなで今のベルギーやオランダなどはヴァロワ家系ブルゴーニュ公家が獲得し、それをハプスブルク皇帝家が継承したんだけど、それを受け継いだのはスペイン王フェリペ2世だった。

他方で、16世紀のベルギー・オランダにはジャン・カルヴァンの教えに従うプロテスタントが増え、カトリック擁護の為に異端審問を強化するスペイン王との対立が激化していった。

ベルギーの街アントワープにあるノートルダム大聖堂

上の画像はブラバント公国に属していた街アントワープノートルダム大聖堂の内部なんだけど、プロテスタントがこの大聖堂に乱入して聖像などを破壊したこともあった。(余談ながら、この大聖堂の中ではバロックの画家ルーベンスの絵を見ることも出来る。)

長い戦いが続き、北部ではカルヴァン派プロテスタントがハプスブルク家のスペイン王の支配を脱して独立を勝ち得たんだ。その独立は西暦1648年にウェストファリア条約において確認されている。その結果、今のオランダが成立したわけだね。

南部ではカトリックが巻き返し、引き続きハプスブルク家の支配下にとどまったんだ。でも、フランス革命の後にはフランスに併合され、皇帝ナポレオンの没落後にはオランダの支配下に入っている。でも、西暦1830年に独立し、今のベルギーとなった。

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