ルネ・ダンジューの誕生、ドラマティックな展開西暦1409年、ルネ・ダンジューが生まれた。祖父のアンジュー公ルイ1世はプロヴァンス伯ともなり、更にはシャルル・ダンジュー以来の歴史を持つナポリ女王の養子となって後にナポリ王位をも主張している。そんなわけで、ルネ・ダンジューの父であるルイ2世ダンジューは、アンジュー公にしてプロヴァンス伯、しかもナポリ王とも主張する人物だった。でも、父が亡くなった後は殆どの領地は兄ルイ3世ダンジューが相続し、ルネ・ダンジューはギーズ伯となったんだ。 ところが、このルネ・ダンジューのここからの人生がドラマティックに展開していく。西暦1430年には母方の親戚からバール公位を相続した。次いで西暦1431年には奥さんの父親からロレーヌ公位をも相続した。ところが、このロレーヌ公位の相続については、アントワーヌ・ド・ヴォーデモンが異議を唱えたんだ。
ブルゴーニュ公フィリップ善良公の支援を得たアントワーヌ・ド・ヴォーデモンとの戦いに敗れたルネ・ダンジューは、ブルゴーニュの首都ディジョンのブルゴーニュ公家宮殿の脇にあるバールの塔(上の画像)に捕われてしまったんだ。
ところが、それが縁となり、ブルゴーニュ公フィリップ善良公とフランス王シャルル7世との和解を仲介したのがルネ・ダンジューなんだから面白いよね。但し、それは少し後のことなんだけど。
ロレーヌ公ルネ・ダンジューとブルゴーニュ公フィリップ善良公二人の息子を人質とすることで西暦1432年に解放されたルネ・ダンジュー。そして西暦1434年には、今のスイスのバーゼル(下の画像)において、神聖ローマ帝国の皇帝ジギスムントによって、ロレーヌ公位を認められたんだ。(当時、ロレーヌ公領は神聖ローマ帝国の領域の中だった。)
ところが、それがまたブルゴーニュ公フィリップ善良公の怒りを呼んだ。二人の息子を人質に取られていたルネ・ダンジューは、再びディジョンのバールの塔に戻ることになってしまった。(ルネ・ダンジューの曽祖父、百年戦争で捕えられ、イングランドの首都ロンドンで亡くなったフランス王ジャン2世を思い出させるね。)
ナポリ王ルネ・ダンジューとアラゴン王アルフォンソ5世ブルゴーニュ公フィリップ善良公に捕われていたルネ・ダンジューは莫大なお金を払って自由を回復したんだ。そして西暦1438年、傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァ(後にミラノ公)と同盟したルネ・ダンジューは、イタリア南部ナポリに向けて出航した。
ルイ3世ダンジューは西暦1434年に亡くなり、弟のルネ・ダンジューが相続した多くの領地やタイトルの中にはナポリ王位も含まれていたんだ。(上の画像はナポリの王宮の前にあるプレビシート広場の様子。)
プロヴァンス伯ルネ・ダンジューと古都エクサン・プロヴァンス兄のルイ3世ダンジューの死により、ナポリ王(名目だけになったけど)のみならずアンジュー公やプロヴァンス伯ともなったルネ・ダンジュー。でも、一族の本拠とも言うべきアンジューは、長く続く百年戦争でイングランド軍によって圧迫されていたんだ。西暦1444年にはルネ・ダンジューはイングランドと交渉している。娘のマルグリットとイングランド王ヘンリー6世との結婚をまとめ上げ、イングランド軍との間の和平を確実にしたんだ。 ところが、やがて起こるイングランドのばら戦争によって、イングランド王ヘンリー6世はロンドン塔に幽閉されて亡くなる。その王妃、つまりルネ・ダンジューの娘のマルグリットは、身代金と引き換えにフランスに帰国することを許されたんだ。 西暦1454年、プロヴァンス伯ルネ・ダンジューは古都アルルのサン・トロフィーム教会で二度目の結婚式を行っている。後に画家ゴッホが好んだ街アルルもプロヴァンス伯の領地だった。更に西暦1466年には名目だけのことではあったけれども、アラゴン王・バルセロナ伯の地位の継承も主張していたんだそうな。 西暦1474年、ルネ・ダンジューは領地であるプロヴァンスに引退した。その6年後の西暦1480年、プロヴァンスの古都エクサン・プロヴァンス(エクス)でプロヴァンス伯ルネ・ダンジューが亡くなった。下の画像は、そのエクサン・プロヴァンスにあるサン・ソヴール大聖堂なんだけど、西暦1285年に建設が始まった建物だから、きっとルネ・ダンジューも見ていただろうね。
ルネ・ダンジューの息子たちは既に亡くなっていた。そんなわけでアンジュー公位はフランス王ルイ11世によって継承され、プロヴァンス伯位は甥のシャルル5世ダンジューによって継承されている。
更に余談なんだけど、教皇のアヴィニョン捕囚で名高い街アヴィニョンも、元々はプロヴァンス伯の領地の一部だった。でも、西暦1348年にはプロヴァンス女伯ジョヴァンナが教皇に売り渡し、アヴィニョンは教皇領の一部となった。その後、教皇がイタリアのローマに戻っても、プロヴァンス伯領がフランス王に帰属しても、アヴィニョンは教皇領に属していたんだ。アヴィニョンの街がフランスの一部になったのは、フランス革命の後のことだった。
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