アンジュー伯にしてプロヴァンス伯ともなったシャルル西暦1227年、フランス王家に男の子が生まれた。やがてアンジュー伯となるその男の子は、後にシャルル・ダンジューと呼ばれる。父はイギリスの首都ロンドンにあるセント・ポール大聖堂でイングランド王として戴冠したこともあるフランス王ルイ8世獅子王。兄にはパリに残るサント・シャペルで名高いフランス王ルイ9世聖王がいた。そんなシャルル・ダンジューが西暦1246年に結婚した相手は、今のフランス南部プロヴァンス地方を領有するプロヴァンス伯の娘だった。その結婚により、後に彼はプロヴァンス伯となる。(ついでながら、彼がアンジュー伯となるのはその翌年のことだから、まだシャルル・ダンジューと呼べないんだけどね、正確には。)
当時のプロヴァンス地方はフランス王国ではなく、神聖ローマ帝国の一部だった。帝国領として自治の伝統の強いプロヴァンス地方の街マルセイユ(上の画像はその港の風景)などでは、シャルル・ダンジューに対する反乱が続いたんだそうな。
兄ルイ9世聖王と共に十字軍に参加したシャルル・ダンジューそんなシャルル・ダンジューの兄であるフランス王ルイ9世は、聖王とも称される敬虔なキリスト教徒だった。シャルトル・ブルーで名高いシャルトル大聖堂(パリから特急列車で1時間ほどのシャルトルの街にそびえている)を完成させたことでも知られている。そんなフランス王ルイ9世聖王が主導したのがエジプト(下の画像はエジプトのギザの三大ピラミッドの風景)に遠征した第7回十字軍だった。でも、このエジプト遠征において、兄のルイ9世も弟のシャルル・ダンジューも捕虜となっている。やがて解放されたけどね。
余談ながら、このフランス王ルイ9世は西暦1270年にも十字軍を起こし、チュニジアに遠征している。いろいろと弁解をして十字軍に参加しない王が少なくない中、二度も十字軍を主導したということで、ルイ9世は聖人とされ、聖王と称されるようになったわけだね。でも、そのチュニジア遠征の際に聖王は亡くなってしまったんだけど。
イタリア南部シシリア島を占領したシャルル・ダンジューその頃、イタリア南部のシシリア島やナポリを支配していたのは、神聖ローマ帝国の皇帝家でもあったホーエンシュタウフェン家だった。でも、そのホーエンシュタウフェン家と対立していたのが、ローマ教皇だった。ホーエンシュタウフェン家によるイタリア南部の支配を突き崩したいローマ教皇クレメンス4世は、西暦1266年にシャルル・ダンジューをシシリア王カルロ1世として戴冠させたんだ。 フランス各地の兵を率いてイタリアに攻め込んだシャルル・ダンジュー(シシリア王カルロ1世)はその年の内にシシリア島を占領し、やがてホーエンシュタウフェン家を滅亡させている。(下の画像はシシリア島のアグリジェントに残る古代ギリシャ時代の神殿。)
イタリア南部を支配下に置いたシャルル・ダンジュー(シシリア王カルロ1世)は、ラテン帝国からコンスタンティノープルを奪回したビザンティン帝国の征服を目指したらしい。
シャルル・ダンジュー亡き後のナポリ西暦1282年にシシリア島を失ったシャルル・ダンジューだったけれども、引き続きシシリア王カルロ1世を称していた。そんなシャルル・ダンジューは西暦1285年にナポリで亡くなっている。(下の画像はナポリのサンタ・ルチアにある卵城。アンジュー家はナポリに新しくヌオーヴォ城を築き、卵城は倉庫として使われたんだそうな。)
シャルル・ダンジュー亡き後、彼の息子や孫がナポリを支配し続けた。その後はアンジュー家の内部での王位争いが続いたらしい。ところが、15世紀半ばにはアラゴン王アルフォンソ5世がナポリ王となる。ところが、ルネ・ダンジューからナポリの権利を継承したと主張するフランス王シャルル8世やルイ12世が攻め込み、イタリアを混乱に陥れるわけだ。
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