フランス王ルイ9世(聖ルイ王)の親政西暦1226年にアルビジョア十字軍を率いてプロヴァンス地方の街アヴィニョンを攻略したフランス王ルイ8世獅子王が亡くなり、王位を継承したのがルイ9世(聖ルイ王)だった。といっても、新王は即位の時点で12歳の少年にすぎず、摂政となった王母のブランシュ・ド・カタルーニャがフランスの統治を担ったらしい。それから8年が過ぎた西暦1234年、フランス王ルイ9世(聖ルイ王)も20歳となり、実質はともかくも形式的には王母は摂政の地位を降りて若い王の親政が始まった。その後、フランス国内ではシャンパーニュ伯の反乱やイングランド王と結んだポワティエ伯の反乱などもあったけれども、なんとか無難に統治が行われたみたい。 そして西暦1245年、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世と対立していたローマ教皇インノケンティウス4世が招集した公会議がフランス東部の街リヨンで開かれた。(下の画像は会議場となったリヨンのサン・ジャン大聖堂。)
そのリヨンでの公会議には、フランス王ルイ9世(聖ルイ王)も参加していた。公会議においては教皇と対立する皇帝フリードリヒ2世の処分を含む様々な問題が討議された。その検討項目の中には、第7回十字軍の派遣も含まれていたらしい。
エジプトで捕虜となったフランス王ルイ9世(聖ルイ王)西暦1248年にはフランスの首都パリのシテ島にサント・シャペルが完成した。聖遺物を安置するためにフランス王ルイ9世(聖ルイ王)が建てた教会だった。その年、フランス王ルイ9世(聖ルイ王)は第7回十字軍の遠征に出発した。まずは地中海東部にあるキプロス島に集結している。十字軍参加者の意見は様々だったが、ルイ9世の考えに従い、エジプトに侵攻している。西暦1249年にエジプトに上陸した第7回十字軍の軍勢は、更にカイロを目指して進軍した。(下の画像はカイロの近くのギザのピラミッドの風景。)
ところが、西暦1250年4月には第7回十字軍の軍勢はエジプト軍との戦いに敗れ、フランス王ルイ9世(聖ルイ王)も弟のシャルル・ダンジュー(後にナポリやシシリア島を占領)と共に捕虜になってしまった。交渉の結果、巨額の身代金を支払い、占領地を放棄して解放されている。
フランス王ルイ9世(聖ルイ王)の統治フランス王ルイ9世(聖ルイ王)は、ヨーロッパ各国の間の争いを調停しようとしたことで知られている。イングランド王ヘンリー3世(聖ルイ王の父ルイ8世獅子王とイングランド王位を争った人物)が反乱に苦しんだ際には、その両者の和解を仲介しようとしたらしい。
他方でフランス王ルイ9世(聖ルイ王)は、アラゴン王ハイメ1世との間に条約を結び、和平の確立に努めている。この条約において、フランス王はバルセロナ伯領に対する上級宗主権を放棄し、アラゴン王はラングドック地方のいくつかの伯領に持つ上級宗主権を放棄した。(上の画像はバルセロナの聖家族教会の塔の上から眺めた街並み。)
ゴシック様式の聖堂や芸術を保護したフランス王ルイ9世(聖ルイ王)教会の長女とも称されたフランス王国は、特に12世紀から13世紀にかけてローマの教皇庁との間に良好な関係を保っていた。(14世紀には教皇のアヴィニョン捕囚などの問題が起きるけれども ・・・ 。)そんな状況下、ルイ9世(聖ルイ王)は新しいゴシック様式の聖堂や芸術を保護している。上に書いたパリのシテ島にあるサント・シャペルを完成させた後にも、西暦1260年にはシャルトル大聖堂(下の画像)を完成させている。(名高いシャルトル・ブルーのステンド・グラスは画家マルク・シャガールが研究したもの。)
そんなフランス王ルイ9世(聖ルイ王)にとって、先の第7回十字軍で聖地を奪還できなかったのは心残りだったんだろうね。西暦1270年には第8回十字軍を率いて遠征に出発した。
ついでながら、フランスの隣国スペインにも聖人とされた王がいる。それがカスティーリャ王フェルナンド3世だった。彼はイスラム教徒に支配されたスペインにおけるキリスト教徒のレコンキスタ(国土回復運動)の英雄であり、スペイン南部アンダルシア地方の街セビリアや古都コルドバを征服した人物だった。
All rights reserved 管理・運営 あちこち三昧株式会社 このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。 |