後ウマイヤ朝の古都コルドバを征服したレコンキスタの英雄西暦711年に北アフリカからジブラルタルを経てイベリア半島に侵入し、古都トレドを本拠としていた西ゴート王国を滅ぼしたイスラム教徒たち。やがて彼らは西暦756年にはスペイン南部アンダルシア地方の古都コルドバに後ウマイヤ朝を建てている。その後、後ウマイヤ朝は西暦1031年に滅びたけれども、古都コルドバはその後もスペインのイスラム教徒にとっての中心だった。そんなスペイン南部の古都コルドバを征服したのが、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)の英雄の一人カスティーリャ王フェルナンド3世だった。
上の画像は古都コルドバのメスキータに残る円柱の森。このメスキータはかつてはイスラム教徒たちのモスクだった。10世紀末から11世紀にかけて世界でも最大の都市となったコルドバでは、数万人のイスラム教徒がこのモスク(メスキータ)で礼拝したんだそうな。
スペイン南部アンダルシア地方の情勢カスティーリャ王フェルナンド3世による古都コルドバ征服は西暦1236年に為されたんだけど、それまでに既にスペイン南部アンダルシア地方のイスラム教徒は劣勢に陥っていた。カスティーリャ王アルフォンソ8世は、西暦1182年と西暦1195年にも古都コルドバ近くまで軍を進めていた。そして西暦1212年にはアフリカ北部からスペインのイスラム教徒を支援していたムワッヒド朝の軍がカスティーリャとアラゴンの連合軍に敗れている。これでスペインのイスラム教徒の劣勢に拍車がかかったらしい。 やがてスペイン南部アンダルシア地方の古都グラナダに拠点を置き、最後のイスラム教徒の勢力となるナスル朝は、西暦1238年にはカスティーリャ王フェルナンド3世に臣従し、貢納金の支払を受け入れている。
上の画像はアンダルシア地方の古都グラナダに残るアルバイシン地区。古い街並みが残り、世界遺産にもなっている。グラナダのアルハンブラ宮殿から眺めた風景なんだけど、この西暦1238年の時点ではアルハンブラ宮殿は建設が始まるところだったけどね。
アンダルシア地方の古都セビリアの征服古都コルドバを征服し、グラナダのナスル朝を臣従させたカスティーリャ王フェルナンド3世は、更にレコンキスタ(国土回復運動)を進めていった。スペイン南部アンダルシア地方のいくつもの街が彼によって征服されたんだ。そして西暦1248年にはグアダルキビル川のほとりにある古都セビリアも征服している。その際にはナスル朝グラナダ王国もフェルナンド3世の為に兵士たちを参加させている。(そんな苦しい外交の結果として西暦1492年までナスル朝グラナダ王国は存続したわけだけど。)
上の画像は今も古都セビリアにそびえるヒラルダの塔。このヒラルダの塔は12世紀後半にイスラム教徒によって建てられたもの。今では隣に建てられたキリスト教徒の大聖堂の鐘塔になっているんだけどね。
古都コルドバのメスキータの中の大聖堂後ウマイヤ朝の君主たちによって古都コルドバの大モスクとして建てられたメスキータなんだけど、16世紀に入るとメスキータの中に大聖堂(下の画像)まで建てられている。
このキリスト教徒の為の大聖堂を建てる為に、広大なメスキータの天井を支える円柱の森の一部が取り壊されてしまったんだそうな。それを承認したのは、ハプスブルク家のスペイン王カルロス1世(皇帝カール5世)だったらしい。彼の頃からスペインにおけるカトリックの強制の為の異端審問が厳しくなり、彼の息子のフェリペ2世の時代にはそれが更に強化され、その息子のフェリペ3世はモリスコの追放を行っている。
大事なことを書くのを忘れていた。このレコンキスタ(国土回復運動)の英雄となったカスティーリャ王フェルナンド3世は、西暦1671年にはカトリック教会によって聖人とされている。ちなみに、フランス王ルイ9世も聖人(聖ルイ王)とされているんだけど、二人は従兄弟の関係にあるらしい。しかし、カトリックの人々にとっては聖人でも、立場が違えば評価も異なるんだろうな。
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