ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1223年、イングランドでも戦ったフランス王ルイ8世が即位した。


ロンドンのセント・ポール大聖堂で王とされたフランス王太子ルイ

フランスの首都パリのシテ島にあるノートルダム大聖堂でフランス王とされたのが、イングランド王ヘンリー6世(後にテムズ川のほとりのロンドン塔に幽閉されて亡くなったけど ・・・ )だね。

逆に、イギリスの首都ロンドンセント・ポール大聖堂(下の画像)でイングランド王とされたのが、フランス王太子ルイ(後のフランス王ルイ8世獅子王)だった。

イギリスの首都ロンドンのセント・ポール大聖堂

その頃のイングランド王は失地王ジョンだった。兄のリチャード獅子心王が築いた要衝ガイヤール城フランス王フィリップ2世尊厳王に奪われ、更にはカーンなどのノルマンディー地方の街々をも失ったイングランド王ジョン失地王。西暦1214年に失地回復を目指してフランスに侵攻したものの結局は敗れて何も獲得できなかった。

そんなジョン失地王に対してイングランドの貴族たちは反乱を起こし、フランス王フィリップ2世尊厳王の王太子ルイ(後のフランス王ルイ8世獅子王)をイングランドに招いた。招きに応じてイングランドに上陸したフランス王太子ルイはロンドンに入城し、そこでイングランド王とされたわけだ。

イングランドから撤退したフランス王太子ルイ(ルイ8世獅子王)

イングランドの貴族たちの支持を受け、イングランドの過半を制圧したフランス王太子ルイ(後のフランス王ルイ8世)。でも、ウィンザー城とドーバー城(下の画像)ではイングランド軍による抵抗が続いていた。フランス王太子ルイもドーバー城を攻囲したんだけど、落とせなかったらしい。

イギリス南部にあるドーバー城

そんなこんなしているうちにイングランド王ジョン失地王が亡くなった。西暦1216年秋のこと。その息子は9歳の少年ヘンリー3世だった。父親のジョン失地王は人望を失っていたんだけど、少年ヘンリー3世に対してイングランドの貴族たちは反発する心を持たなかったらしい。

次第にイングランドの貴族たちはフランス王太子ルイの下から離れ、少年ヘンリー3世の許に集まっていった。そんなわけで西暦1217年にはフランス王太子ルイは戦いに敗れ、イングランドとランベス条約を結ばざるを得なくなったんだそうな。その条約の中でフランス王太子ルイは賠償金を受け取ったんだけど、正式なイングランド王には即位しなかったとされた。

アヴィニョンを攻略したフランス王ルイ8世獅子王

結局のところイングランド王位を得ることが出来ず、失意のうちにフランスに帰国した王太子ルイ。それから6年後の西暦1223年、父のフィリップ2世尊厳王の死に伴い、フランス王ルイ8世獅子王として即位した。

やがてアルビジョア十字軍を率いてプロヴァンス地方に侵攻し、アヴィニョンの街を攻略している。(下の画像は教皇のアヴィニョン捕囚の後に築かれた教皇宮殿のテラスから眺めたアヴィニョンの街。)

フランス南部プロヴァンス地方にある街アヴィニョン

ところが、そのアヴィニョン攻略から半年後、獅子王と称されたフランス王ルイ8世が亡くなった。病死だった。王妃の陰謀による毒殺説もあるんだけどね。西暦1223年に即位して亡くなるまで3年間の短い治世だった。ドラマティックではあったけどね。

次のページ



姉妹サイト ヨーロッパ三昧

ヨーロッパ三昧

このサイト「ヨーロッパの歴史風景」の本館が「ヨーロッパ三昧」です。イギリス・フランス・イタリア・スペイン・ギリシャ・トルコ・エジプト・ロシア・アゼルバイジャンなど25国45編の旅行記を掲載しています。こちらも遊びに行ってみてくださいね。

「ヨーロッパ三昧」のトップ・ページのURLは、 http://www.europe-z.com/ です。

Copyright (c) 2012 Tadaaki Kikuyama
All rights reserved
管理・運営 あちこち三昧株式会社
このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。