病弱だった子供の頃のフランス王フィリップ2世(尊厳王)カペー家のフランス王ルイ7世は西暦1137年に広大な領地を持つアキテーヌ公爵家の相続人エレアノールと結婚し、フランス王家を強大化するかと思われた。ところがフランスの首都パリの郊外のサン・ドニ大聖堂(当時は修道院)で教育を受けたルイ7世とトルバドゥール(吟遊詩人)の血をひくエレアノールとの婚姻は長くは続かなかった。結局、ローマの教皇に婚姻の無効(つまりは離婚)を認めてもらうこととなった。そのアキテーヌ女公爵エレアノールはプランタジネット家のアンリ(後にイングランド王ヘンリー2世)と結婚し、やがてフランス王ルイ7世はイングランドからフランス北部・西部を支配する強大なアンジュー帝国と競合することになってしまった。
そのフランス王ルイ7世は、再婚はしたものの念願の男子を得るまでには長い年月を待つことになった。そしてようやく生まれた男子(後のフランス王フィリップ2世尊厳王)は病弱だった。その幼児が重病に陥った時には、父のフランス王ルイ7世は、敵国イングランドの南部にあるカンタベリー大聖堂の聖トマス・ベケット殉教の聖地(上の画像は聖トマス・ベケット殉教の現場)まで巡礼に行ったんだそうな。
フランス王フィリップ2世(尊厳王)がガイヤール城を攻略そして西暦1180年、フランス王ルイ7世が亡くなり、病弱だった息子が15歳でフランス王フィリップ2世(尊厳王)あるいはフィリップ・オーギュストとして即位した。このフィリップ2世は、西暦1190年にパリのセーヌ川右岸のシテ島近くに城砦を築かせている。この城砦がルーブル宮殿(今の美術館)になるのは、まだまだ先のことなんだけどね。プランタジネット家のイングランド王ヘンリー2世、次いでリチャード獅子心王が亡くなり、失地王ジョンがイングランド王となったのは西暦1199年のこと。ここからフランス王フィリップ2世(尊厳王)の攻勢が始まった。 西暦1203年にはイングランド王リチャード獅子心王が築城したノルマンディー地方の要衝ガイヤール城(下の画像)を攻囲し、半年後には攻略した。イングランド王ジョン失地王は、援軍を送ることさえもできなかったらしい。
フランス王フィリップ2世(尊厳王)の軍は、勢いに任せてカーン(イングランド征服王ウィリアム1世が築いたカーン城があった)やバイユー(バイユー・タペストリーが名高い)などを含むノルマンディー地方のほぼ全土を占領したらしい。
このフィリップ2世によるノルマンディー攻略の際の戦火によって、今の世界遺産 モン・サン・ミシェルの修道院も損傷を受けてんだそうな。その修道院の修復・強化をフィリップ2世が財政的に支援した。そんなわけで後の百年戦争の際には、モン・サン・ミシェルはイングランド軍の攻撃に根強く抵抗したらしい。
フランス王太子ルイによるイングランド上陸フランス王フィリップ2世尊厳王(オーギュスト)の攻勢によって、プランタジネット家のイングランド王ジョン失地王はフランスの領地の大部分を失ってしまった。そんなジョン失地王に対して、西暦1215年にイングランド貴族たちが反乱を起こしている。そのイングランド反乱貴族たちはフランス王太子ルイ(後のフランス王ルイ8世)にイングランド上陸を要請してきた。
父であるフランス王フィリップ2世尊厳王の容認を得て、王太子ルイは軍を率いてイングランドに上陸。一時期はイングランドの首都ロンドンにもフランス軍部隊が入り、抵抗を続けていたのはウィンザー城とドーバー城(上の画像)だけという状況になったんだそうな。
フランス王フィリップ2世尊厳王の晩年他方でフランス王フィリップ2世尊厳王は、その即位前から始まっていたパリのノートルダム大聖堂の建設工事を支援し続けたらしい。(下の画像はパリのセーヌ川に浮かぶシテ島のノートルダム大聖堂。)
西暦1223年、フランス王フィリップ2世尊厳王が亡くなり、サン・ドニ大聖堂にあるフランス王家の墓所に蒙られたんだそうな。他方でかつてイングランドで戦った王太子がフランス王ルイ8世として即位している。
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