街道の街ボローニャの中心となったマッジョーレ広場古代ローマが新たな土地を支配する時、必ず行ったのは道路の建設だった。ロンディニウム(今のイギリスの首都ロンドン)を建設した際も、テムズ川のほとりを基点に道路を築いている。その道路の向かう先には支配の拠点となる都市があった。それが今のイギリスの街チェスターやヨークに発展しているわけだ。イタリア国内においても同様だった。紀元前2世紀にケルト系ガリア人支配下にあった街を奪い、イタリアを南北に縦貫する街道と街を築いた。それがエミリア街道であり、ボノーニャの街(今のボローニャのこと)だった。 その後のボローニャは、東ゴート族、ビザンティン帝国、ロンバルド王国などの支配下に入っていた。更にはフランク王国のカール大帝に攻略され、ローマ教皇に寄進されている。そして11世紀、街道の街ボローニャは発展を始めていた。 西暦1088年にはボローニャ大学が設立された。ヨーロッパ最古の大学とされているよね。その大学で学ぶ為にヨーロッパから多くの学生たちが集まってきたらしい。その学生たちを下宿させるために家々は道路の上に部屋を建て増しした。その部屋を支えているのが、今も残るポルティコあるいは柱廊(中世のアーケードのような)なんだそうな。
街道の街であることに加えて、ヨーロッパ最古の大学を持つことにより、ボローニャの街は更に発展を続けた。12世紀には街を取り囲む城壁を拡大することも必要になったらしい。またボローニャの街には100を越える数の塔も建てられたそうな。そんなボローニャで西暦1200年に始まったのが、マッジョーレ広場(上の画像)の建設だった。
マッジョーレ広場の南には聖ペトロニウス聖堂マッジョーレ広場が建設された13世紀、ボローニャの街は更に成長を続けていた。やがてその人口は5万人を越え、ヨーロッパでも五指に入る大都市になったらしい。そんなボローニャを惨禍が襲ったのは西暦1348年のこと。人口の半分以上にあたる3万人もの人々が黒死病(ペスト)で亡くなったらしい。そんなこともあり、自治都市だったボローニャはミラノのヴィスコンティ家の支配下に入っている。西暦1360年にはローマ教皇領に復帰したけどね。
それでも、西暦1390年にはマッジョーレ広場の南側で聖ペトロニウス聖堂(上の画像)の建設が始まった。聖ペトロニウス(サン・ペトロニオ)というのは5世紀のボローニャの司教でボローニャの街の守護聖人でもあるらしい。またボローニャに残る聖ステファノ教会群の建立を始めた人物でもある。そんなボローニャの守護聖人に捧げられたのが、この聖ペトロニウス聖堂ということなんだそうな。
街道の街ボローニャの中世の商人たち14世紀に建てられた税関や商事関係の裁判を行う建物が今もボローニャの街に残っている。それがメルカンツィーア宮殿(下の画像)なんだ。
この建物の前にあるメルカンツィーア広場には、かつて多くの商人たちが集まっていたらしい。そのメルカンツィーア広場の周辺には、今も多くのポルティコ(柱廊)が残っているんだけど、中世の商人やボローニャ大学の学生たちはそんなポルティコの下を歩いていたんだろうね。
マッジョーレ広場の脇に海神ネプチューンの噴水ボローニャの中心マッジョーレ広場に話をもどそう。その広場の脇(正確にはマッジョーレ広場に隣接するネットゥーノ広場)には海神ネプチューンの噴水(下の画像)がある。この噴水の彫刻は16世紀の芸術家ジャンボローニャの作品なんだそうな。(ジャンボローニャはイタリアの古都フィレンツェのシニョーリア広場に立つコシモ1世の騎馬像を制作した人物。)
古代から中世にかけてイタリアを南北に結ぶエミリア街道を行き交う多くの人々が集まった街道の街ボローニャのマッジョーレ広場。今は世界各地の人々が集まり、海神ネプチューンの噴水の前で記念写真を撮っている。
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