ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1216年、イングランド南部(イギリス)に上陸したフランス軍が、ドーバー城を攻囲した。


イギリス南部の最前線 ドーバー

イングランド南部(イギリス)の略図 今では多くの観光客が訪れるイングランド南部の名所ドーバー。ここは古代からブリテン島南部の最前線として、要衝の地だったんだ。

紀元前43年には、この地に古代ローマ人たちが灯台を建てている。その後、2世紀頃には、ここに古代ローマ帝国のブリテン島艦隊の司令部も置かれていたんだそうな。

10世紀頃にはアングロ・サクソン人もこの丘を要塞化していたらしい。

ついでながら、右の地図の中のイギリスの国旗は言うまでもなくイギリス(連合王国)の国旗だけど、イングランドの国旗はイングランドの国旗(イングランドの守護聖人である聖ジョージの旗)だよ。

イングランド王ヘンリー2世が築いたドーバー城

12世紀後半のプランタジネット家のイングランド王ヘンリー2世は、アンジュー伯・ノルマンディー公として、フランス国内にも広大な所領を持っていた。当然ながら、それが面白くないフランス王とは仲が悪い。

イングランド南部の要衝ドーバー城を遠望(イギリス)

そこでフランス軍の進攻に備えるために、プランタジネット家のイングランド王ヘンリー2世が築いたのが、今に残るドーバー城なんだ。(上の画像はドーバー城を遠望したもの。)

フランス軍の上陸とドーバー城の攻囲

そんなヘンリー2世の心配も、あながち無駄じゃなかった。というのも、西暦1216年にはイングランド南部にフランス軍が上陸し、このドーバー城を攻囲しているんだ。結局、フランス軍はドーバー城を攻略できずに撤退したけどね。(下の画像は今のドーバー城の様子。)

イングランド南部にある要衝ドーバー城の堀と城壁(イギリス)

このイングランド南部の要衝の地ドーバーへは、イギリスの首都ロンドンから鉄道に乗って日帰りで行ける。そんな要衝の地をフランスに奪われては大変だものね。ヘンリー2世がここに城を築いたのも無理はないよね。ヘンリー2世の時代に鉄道は無かったにしても。

失地王ジョンとマグナ・カルタ(大憲章)

ところで、何故にイングランド南部の要衝ドーバー城がフランス軍に攻囲されたのか。加えて、その当時はイングランドの首都ロンドンもフランス軍の手の中にあったと言えば驚きなんだけど、何故にそんなことになっていたのか。その鍵は、当時のイングランド王がジョン失地王だったことかな。

西暦1199年にイングランド王リチャード獅子心王が亡くなり、その後継者指名に基づいてイングランド王位はジョン失地王に継承された。が、その「失地王」という名の通り、やることなすこと失敗続き。とうとうヨーロッパ大陸にあった領地の殆どを奪われてしまった。かつてヘンリー2世の頃のプランタジネット家はイングランドからピレネーまで領有していたのに。

更にはカンタベリー大聖堂の大司教の任命に関してローマの教皇と争い、西暦1209年にはイングランド王ジョン失地王は教皇インノセント3世によって破門されている。やがて窮地に陥ったジョン失地王は、教皇にイングランドを献上し、教皇から封土としてイングランドを受け取ることで破門を解いてもらっている。

そんなことで、ジョン失地王はイングランドの全ての人々に不満と失望をもたらしたらしい。そして西暦1215年6月15日、イングランドの貴族たちの要求に逆らうことが出来ずにマグナ・カルタ(大憲章)にサインしたらしい。ところが、さすがはジョン失地王というべきか、自分がサインしたマグナ・カルタ(大憲章)を守るつもりはなかったみたい。

イングランド貴族の反乱とフランス軍のイングランド侵攻

さすがにイングランドの貴族たちもジョン失地王にはほとほと愛想が尽きた。西暦1215年の秋に反乱を起こし、フランスの皇太子ルイ(後のフランス王ルイ8世獅子王)にイングランド王位を提供する一方で、ジョン失地王との戦いの支援を求めたんだそうな。

そして西暦1216年にはフランス軍がイングランド南部に上陸し、ほとんど抵抗を受けることも無くロンドンまで進んだらしい。しかもフランス王太子ルイはロンドンのセント・ポール大聖堂でイングランド王とされたんだ。そんなこんなでフランス軍はイングランドの殆どを支配下に置き、ジョン失地王の為に戦っていたのはウィンザー城とドーバー城だけという状況だった。

イングランド南部にある要衝ドーバー城に残る古代ローマ時代の城壁(イギリス)

そして西暦1216年7月にフランス軍がドーバー城を攻囲したというわけだ。ところが、ドーバー城のイングランド軍守備兵は守りを固めて抵抗した。とうとうフランス軍は城を落とすことが出来ず、10月には休戦してロンドンに撤退したんだそうな。

その直後にイングランド王ジョン失地王が亡くなり、その息子で9歳のヘンリー3世が王位を継承した。あのジョン失地王さえいなくなれば、イングランドの貴族たちも反乱を続ける気持ちを失ったらしい。次第に新しいイングランド王ヘンリー3世のもとにイングランドの人々の支持が集まっていった。フランス軍は西暦1217年にも再びドーバー城を攻囲したものの失敗。結局、その年の9月にフランス軍はイングランドから撤退したんだそうな。

フランスにおける領地を失ったジョン失地王は危うくイングランドまでも失いそうになったものの、9歳の息子がそれを救ったというわけだね。ちなみに、以後のイングランドにはジョンという名前の王はいないんだそうな。

他方、イングランド王になり損ねたフランス王太子ルイは、やがて西暦1223年にフランス王ルイ8世として即位している。更にアルビジョア十字軍を率いてフランス南部プロヴァンス地方に侵攻し、アヴィニョンの街をも攻略した。そんなわけで獅子王とも呼ばれるんだけど、西暦1226年には病気で亡くなり、フランス王としての在位は3年間という短さだった。

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