ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1232年、スペイン北東部のアラゴン・カタルーニャ連合王国の王ハイメ1世がヴァレンシア征服に着手した。


アラゴン・カタルーニャ連合王国の王ハイメ1世のヴァレンシア征服

西暦711年に北アフリカからジブラルタルを経てイスラム教徒が侵攻してから、西暦1492年にカトリック両王(カスティーリャ女王イサベル1世アラゴン・カタルーニャ王フェルナンド2世)がスペイン南部アンダルシア地方に残ったナスル朝の古都グラナダを攻略するまで、800年近くに渡ってスペインのキリスト教徒はイスラム教徒と戦ってきたわけだ。

その長く続いたスペインのレコンキスタ(国土回復運動)の英雄は少なくないんだけど、その中の一人が征服王とも称されたアラゴン・カタルーニャ連合王国の王ハイメ1世(あるいはジャウマ1世)だった。

スペイン東部の街ヴァレンシアの大聖堂とミゲレテの塔

征服王ハイメ1世は西暦1232年に軍を率いて南下し、イスラム教徒が支配するスペイン東部(地中海沿岸)の街ヴァレンシアの征服に着手し、その6年後にヴァレンシアの街を攻略したんだ。(上の画像はヴァレンシアの大聖堂とミゲレテの塔の風景。)

ついでながら、このヴァレンシアは中世スペインの英雄エル・シドに征服されたことがある。でも、彼の死後にはムラービト朝によって再び征服されていたんだ。

征服王ハイメ1世の人質時代、即位、そしてバレアレス諸島征服

征服王ハイメ1世の父、アラゴン・カタルーニャ連合王国の王ペドロ2世(バルセロナ伯としてはペドロ1世)は、今のフランス南部にも領地を持っていた。ところがその地域に住むカタリ派の人々に対してアルビジョア十字軍が組織されたんだ。

そのアルビジョア十字軍との和平を求めて、ペドロ2世は息子のハイメ1世を人質として引き渡した。いや、正確には十字軍の指揮官シモン・ド・モンフォールの娘と結婚させる為に送り込んだ。といっても、その時点でハイメ1世は3歳だった。

そんな努力の甲斐なく、ペドロ2世とアルビジョア十字軍は戦いを交え、ペドロ2世は戦死してしまった。その唯一の跡継ぎがハイメ1世だった。でも、シモン・ド・モンフォールはハイメ1世を故国に帰すことを拒否したらしい。ところが、ローマ教皇の圧力により、ハイメ1世は西暦1214年に故国に送り返され、アラゴン・カタルーニャ連合王国の王となったんだ。

といっても、その時点でハイメ1世は6歳。今で言えば小学校に入学する年齢だね。アラゴン・カタルーニャ連合王国の統治は親戚に委ねられ、ハイメ1世はテンプル騎士団によって育てられている。やがてハイメ1世は9歳で騎士となり、13歳で隣国カタルーニャ王国の王女と結婚している。

そして西暦1225年、アラゴン・カタルーニャ連合王国の王ハイメ1世は、ヴァレンシアのイスラム教徒と戦ったんだ。でも、17歳の未熟な王ハイメ1世に協力する貴族たちは少なく、後の征服王の初めての遠征はあえなく失敗に終わったらしい。

それから幾度かの失敗に学んだハイメ1世は、イスラム教徒が支配するバレアレス諸島の征服にとりかかった。そして西暦1229年、ハイメ1世はマヨルカ島の征服に成功したんだ。ちなみに、この戦いの最中にカタルーニャの守護聖人サン・ジョルディ(聖ジョージあるいはセント・ジョージ)が姿を見せたとか。その後、西暦1232年にはミノルカ島を、西暦1235年にはイビサ島をも征服している。

スペイン北東部カタルーニャ地方の州都バルセロナの海洋博物館(旧王立造船所)で見たガレー船の実物大復元模型

上の画像はスペイン北東部カタルーニャ地方の州都バルセロナにある海洋博物館(旧王立造船所)で見たガレー船(西暦1571年のレパントの海戦で司令官ドン・ファン・デ・アウストリアが乗ったガレー船)の実物大復元模型。征服王ハイメ1世も港町バルセロナに造船所を建てさせたそうな。

余談ながら、その後のバルセロナを中心とするカタルーニャは地中海を舞台に海上交易で繁栄していった。その海上交易などのルールなどを集大成した海事関係法令集を世界で初めて編纂させたのもハイメ1世だったそうな。この法令集はその後の各国の海事関係の規範となったらしい。

征服王ハイメ1世、ヴァレンシア、フランス、十字軍、公会議

このページの冒頭で書いたように、アラゴン・カタルーニャ連合王国の王ハイメ1世は、西暦1232年にヴァレンシアの征服に着手し、その6年後にはヴァレンシアの街を攻略している。でも、ヴァレンシア付近のイスラム教徒との戦いはその後も続いたんだ。

西暦1244年には隣国カスティーリャ王国の王フェルナンド3世の王子(後のカスティーリャ王)アルフォンソ10世とアルミスラ条約を結んでいる。ハイメ1世はスペイン東部を南下してヴァレンシアを征服していたし、他方のカスティーリャはスペイン中央部を南下して古都コルドバを攻略していた。レコンキスタ(国土回復運動)が進めば両国がどこかで衝突する懸念があったから、その前に両国の勢力範囲を調整する条約だった。

他方で、西暦1258年にはハイメ1世はフランス王ルイ9世(聖ルイ王)とコルベイユ条約を結んでいる。そもそもバルセロナを中心とするカタルーニャ地方は、歴史的にはフランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)が設けたスペイン辺境領だった。西暦985年のアル・マンスールによるバルセロナ占領の後にフランスの支配からのカタルーニャの独立を宣言したものの、それはあくまでもカタルーニャの側からの一方的な宣言に過ぎなかった。それをコルベイユ条約によってフランスからの確認を得たわけだ。

足許を固め、隣国との利害を調整したハイメ1世は、西暦1269年には艦隊を率いてバルセロナの港を出港した。聖地エルサレム奪還の為の十字軍を実行しようとしたわけだ。ところが、その十字軍は5日後には挫折してしまった。暴風雨によって艦隊は四散し、60歳になっていたハイメ1世はかろうじてフランス南部プロヴァンス地方の海岸にたどり着いたんだそうな。

ところが、さすがに征服王と称されるアラゴン・カタルーニャ連合王国の王ハイメ1世はまだまだ楽隠居をするつもりはなかったみたい。西暦1274年にはフランス東部の街リヨンで開催された第2回リヨン公会議に出席している。この公会議では十字軍の遠征について討議が行われ、征服王ハイメ1世はすぐに十字軍遠征を組織することを提案したらしい。でも、誰の賛同も得られず、十字軍の話は流れちゃったらしい。

イタリアの首都ローマのヴァティカンにあるサン・ピエトロ大聖堂の脇の教皇宮殿

余談ながら、この第2回リヨン公会議では、教皇が亡くなった後の次の教皇の選出方法について定められたんだそうな。つまり、直ちに枢機卿たちが集まり、外部から閉ざされた環境で次の教皇を選び出すというコンクラーベだね。(上の画像はイタリアの首都ローマのヴァティカンにあるサン・ピエトロ大聖堂の脇の教皇宮殿。イタリア・バロックの彫刻家ベルニーニによるサン・ピエトロ広場からの眺めなんだ。)

征服王ハイメ1世の死

60歳を過ぎても十字軍遠征に向かったり、公会議出席の為にリヨンまで赴いた征服王ハイメ1世も西暦1276年には病に倒れ、自分が征服したヴァレンシアで亡くなっている。68歳だったそうな。

スペイン東部の街ヴァレンシアの火祭り

ところで、上の画像はハイメ1世が征服し亡くなった街ヴァレンシアの火祭りの様子。まるで火事のように見えるけどね。パンプローナの牛追い祭り、セビリアの春祭り、ヴァレンシアの火祭りがスペインの三大祭なんだそうな。もし3月中旬にヴァレンシアへ行く機会があるならば、火祭りを見るのも良いかも。但し、火祭りの時期のヴァレンシアはかなり混雑しているけどね。

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