アル・マンスールの青年時代10世紀の前半、今のスペイン南部アンダルシア地方の古都コルドバに生まれたムハンマド・イブン・アビー・アーミルという若者がいた。やがて彼はアル・マンスールという名前で知られることになるんだ。というわけで、このページでは最初からアル・マンスールと書くことにしよう。アル・マンスールの祖先は西暦711年に北アフリカからジブラルタルを経てイベリア半島に侵攻したイスラム教徒の一人だった。その後はイスラム法の裁判官や法学者としてコルドバを首都として成立した後ウマイヤ朝に仕えたらしい。
そんなわけで、アル・マンスールも若い頃には法学を勉強したんだそうな。やがて彼は裁判官の書記として働いた。でも、西暦967年には後ウマイヤ朝のカリフであるハカム2世の愛妾の財産管理人になった。(上の画像は後ウマイヤ朝の古都コルドバにあるメスキータにある華麗な装飾。かつてはカリフも礼拝に訪れた大モスクだった。)
後ウマイヤ朝で出世を続けたアル・マンスールその後のアル・マンスールは後ウマイヤ朝の宮廷や役所で多くの役職を得て、とんとん拍子で出世していった。造幣局の責任者になり、古都セビリアの裁判官になり、カリフの後継者ヒシャーム2世の財産管理人になり ・・・ 。(下の画像はアル・マンスールが裁判官を務めた古都セビリアの大聖堂のナランハの庭。ヒラルダの塔から見下ろした眺め。)
そして西暦976年、ハカム2世が亡くなり、11歳のヒシャーム2世が後ウマイヤ朝のカリフとなった際には、アル・マンスールは宰相にまでなった。
後ウマイヤ朝の実質的な支配者となったアル・マンスール西暦977年にはアル・マンスールは初めて軍の指揮を執り、キリスト教国のレオン王国に侵攻し、勝利を得ている。更には後ウマイヤ朝の軍の実力者で辺境軍の司令官だったガーリブの娘と結婚し、舅ガーリブの力をも得て、カリフの侍従にもなった。他方でまだ子供だったカリフを宮殿に閉じ込め、ひたすら礼拝などに専念させたそうな。加えて、自分の一族を重用し、権力を強固なものにしていったんだ。 そして西暦981年、舅にして軍の実力者だったガーリブと戦い、ガーリブを戦死させている。この時点でアル・マンソールは後ウマイヤ朝の実質的な支配者となったわけだ。ちなみに「アル・マンソール」とは「神から勝利を授けられた者」という意味の称号なんだけど、ガーリブに対する勝利の時からこの称号を使うようになったんだそうな。 それでもアル・マンソールは自分の権威に不安があったんだろうね。人々の支持を得る為に、古都コルドバの大モスクの拡張などを行っている。更にはほぼ毎年2回はキリスト教諸国に対して遠征を行ったんだ。例えば西暦985年には今のスペイン北部カタルーニャ地方の街バルセロナまで遠征し、一時的ながらも街を占領している。
そのアル・マンスール指揮下のイスラム教徒軍の占領中に、4世紀に建てられたバルセロナの教会が破壊されたんだそうな。(上の画像は、その教会のあった場所に後に建てられたバルセロナの大聖堂。)
アル・マンスールの死その後も彼はキリスト教諸国への遠征を行っている。西暦988年にはレオンを占領している。更に西暦997年にはキリスト教徒の聖地であるサンチャゴ・デ・コンポステラを一週間にわたって占領し、街を破壊したんだそうな。その戦利品として、教会の鐘をキリスト教の聖職者たちに背負わせ、古都コルドバまで運ばせたらしい。(下の画像は後ウマイヤ朝の古都コルドバとグアダルキビル川の風景。)
そして西暦1002年、カスティーリャ王国への遠征からの帰り道、アル・マンスールが病死している。65歳だった。
後ウマイヤ朝の崩壊後、スペインのイスラム教徒の支配地域は、いくつもの小王国に分裂してしまった。その小王国の中でも、古都トレドやヴァレンシアなどはアル・マンスールの孫や曾孫たちが支配していた。でも、やがて古都トレドはカスティーリャ王アルフォンソ6世に征服され、ヴァレンシアはエル・シドに征服されてしまったんだけどね。北アフリカからムラービト朝などが進出しても、スペインにおけるキリスト教徒によるレコンキスタの流れは止めようもなくなっていったんだね。
All rights reserved 管理・運営 あちこち三昧株式会社 このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。 |