フランス南部プロヴァンス地方に侵入したサラセン人高校の世界史の標準的な授業では ・・・ 8世紀初頭にイスラム教徒のサラセン人が北アフリカからイスラム半島に侵入し、西ゴート王国を滅亡させた。サラセン人は更に北上してガリア(フランス)に入った。でも、西暦732年にトゥール・ポワティエの戦いでカール・マルテルがサラセン人を撃破し、彼らの更なる侵入を防いだ。・・・ となるのかな。でも、歴史はもっと複雑だったみたい。トゥール・ポワティエの戦い以前からサラセン人は今のフランス南部プロヴァンス地方に侵入していたし、カール・マルテルによって撃破されてからはプロヴァンス地方へのサラセン人の侵入が更に激しくなったらしい。 具体的には、トゥール・ポワティエの戦いの3年前の西暦729年には、サラセン人はフランス南部コート・ダジュールのニースを襲撃している。この襲撃はニースの人々によって撃退されたらしいけどね。(下の画像はニースの海岸通プロムナーデ・デ・ザングレの風景。)
続いて西暦731年には、サラセン人は古都エクサン・プロヴァンスを襲撃し、西暦740年には岩山の上の鷲の巣村エズを略奪した。
フランス南部の各地を襲撃したサラセン人9世紀に入ってもフランス南部におけるサラセン人の脅威は続いていた。例えば下の画像に見える岩山の上のゴルド村に 8世紀に建立された修道院も、サラセン人の襲撃で破壊されたらしい。(余談だけど、20世紀の画家マルク・シャガールはこのゴルド村を愛したんだそうな。)
西暦859年には、ニースがサラセン人に襲撃され、略奪を受けて街が炎上したらしい。続いて西暦880年には再びニースがサラセン人の惨禍に襲われている。
その他にも古代ローマ帝国時代からの歴史を持つニームなどの街もサラセン人の侵攻を受けている。ちなみに、ニームの街に水を供給していたポン・デュ・ガールの水道橋なんだけど、8世紀頃までは水が流れていたらしい。水が流れなくなったのは、サラセン人がこのあたりに跋扈していた頃なのかもしれないね。
約80年間もサラセン人に占領されたエズ村そんなニースと今のモナコ公国の間にあるエズ村は、9世紀末にはサラセン人によって占領されてしまった。(下の画像は岩山に登る道の途中からエズ村を見上げた風景。)
この岩山の上のエズ村に対するサラセン人の支配は、約80年間も続いたんだそうな。
プロヴァンス伯ギョーム1世がサラセン人を敗走させたそんなこんなでフランス南部プロヴァンス地方の各地がサラセン人の脅威にさらされていたんだけど、西暦973年にはクリュニー修道院の修道院長がサラセン人に誘拐された。サラセン人の要求に従い、身代金を支払って修道院長は解放されたんだ。でも、時のプロヴァンス伯ギョーム1世は、そんなサラセン人に戦いを挑み、サラセン人を敗走させた。岩山の上のエズ村がサラセン人の支配から解放されたのは、その結果だった。エズ村に限らず、フランス南部からサラセン人が駆逐されたらしい。 そんな功績をあげたプロヴァンス伯ギョーム1世は、西暦980年にはアルル伯にも任じられている。(下の画像は古代ローマ帝国時代の遺跡も多く、画家ゴッホの思い出も残る古都アルルの風景。)
ちなみに、サラセン人を駆逐したギョーム1世の後も大きな勢力を保ったプロヴァンス伯は、フランス王ではなく神聖ローマ帝国皇帝に従っていたんだ。プロヴァンスがフランス王に帰属したのは、15世紀のプロヴァンス伯ルネ・ダンジューが亡くなって後のことだった。
ついでながら、そんなプロヴァンス伯の領地の中には、後に教皇のアヴィニョン捕囚によって教皇庁が置かれた街アヴィニョンも含まれていた。そのアヴィニョンの街は、西暦1348年に教皇がプロヴァンス女伯ジョヴァンナから買い取り、以後は教皇領の一部になったんだ。教皇がイタリアのローマに戻っても、プロヴァンス伯領がフランス王に帰属しても、アヴィニョンは教皇領の一部であり続けた。でも、フランス革命の後にはとうとうアヴィニョンもフランスに併合されたんだけどね。
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