スペイン南部アンダルシア地方の古都セビリアのモットースペイン南部アンダルシア地方の古都セビリアには、西暦1929年に開催されたイベロ・アメリカ博覧会という万博の跡地を整備したスペイン広場がある。その広場にある多くのカラフルなタイルの一つが下の画像なんだ。
このスペイン広場を飾る多くのタイルは、スペイン各地の歴史を示すものなんだそうな。その中でも上の画像にあるタイルは古都セビリアにゆかりのもの。タイルの中に見えているのは、セビリアの街の紋章なんだけど、その下部に見える文字「 NO8DO 」は街のモットーなんだそうな。
スペインの古都トレドに生まれたカスティーリャ王アルフォンソ10世このページの主役であるカスティーリャ王アルフォンソ10世は、西暦1221年にスペインの古都トレドで生まれている。(下の画像はトレド大聖堂の塔を見上げた様子。)
その父はスペインのレコンキスタ(国土回復運動)の英雄の一人カスティーリャ王フェルナンド3世だった。彼は西暦1236年にはかつての後ウマイヤ朝の古都コルドバを征服し、西ゴート王国滅亡直後のイスラム教徒の本拠だった古都セビリアを西暦1248年に占領している。若い頃のアルフォンソ10世も父王の遠征軍に加わっていたらしい。
英雄になり損ねたカスティーリャ王アルフォンソ10世西暦1252年、カスティーリャ王として即位したアルフォンソ10世は30歳になっていた。やがて彼は母親の血筋を根拠に神聖ローマ帝国皇帝となるべく運動を始めた。その為に財政的に無理をし、やがて反乱を招いている。それでも皇帝になれなかったんだけどね。(後にハプスブルク家のスペイン王カルロス1世も同様の反乱に苦しめられた。彼は皇帝になったけど。)他方でカスティーリャ王アルフォンソ10世は文化的には目覚しい業績を残している。彼は古都トレドにユダヤ人やイスラム教徒の学者を集め、アラビア語やヘブライ語の文献をラテン語やカスティーリャ語に翻訳させたらしい。その中でも特に天文学や占星術における貢献が大きかったんだそうな。 また彼はカスティーリャ語の公的な使用も進めたらしい。その結果、カスティーリャ語が後の標準スペイン語となる基礎を築いたんだそうな。更に彼は歴史文献を整理し、法典を整備し、音楽の作曲も行い、チェスの論文も書いている。 ところが、西暦1264年にはスペイン南部アンダルシア地方の支配地でイスラム教徒による反乱が起き、その速やかな鎮圧に失敗し、その結果として父の時代には臣従し貢納金まで支払っていたグラナダのナスル朝の初代君主ムハンマド1世の離反をも招いてしまったそうな。
その後、ナスル朝は200年以上も後のカトリック両王の攻囲によるグラナダ陥落まで命脈を保ったんだけど、その背景の一つが成立初期のナスル朝グラナダ王国に対するアルフォンソ10世の無策だったという説もあるんだそうな。(上の画像はグラナダのアルハンブラ宮殿の中のライオンの中庭。かつてナスル朝のハレムはここにあったらしい。)
古都セビリアに幽閉されたカスティーリャ王アルフォンソ10世そんなカスティーリャ王アルフォンソ10世を悲しませたのは、西暦1275年の王太子の死だった。そこで生じたのが後継者争いだった。故王太子の弟(つまりアルフォンソ10世の次男)のサンチョが次の王太子として名乗りを上げた。でも、王は故王太子の息子(つまりアルフォンソ10世の孫)を後継者としたかったらしい。結局、サンチョは父王に対して叛旗を翻した。貴族たちの多数はサンチョを支持した。多くの都市もサンチョを支持した。アルフォンソ1世を支持したのは古都セビリアなどわずかな都市だけだった。 西暦1282年、捕えられたカスティーリャ王アルフォンソ10世は、サンチョを王太子として認めさせられ、その上で古都セビリアに幽閉された。そんな古都に対してアルフォンソ10世が残した言葉が「セビリアは決して私を見捨てなかった」だった。それがセビリアの街のモットーになった。そのモットーの略が冒頭に書いた「 NO8DO 」なんだそうな。
その2年後、英雄になり損ねたカスティーリャ王アルフォンソ10世が古都セビリアで亡くなった。彼はセビリア大聖堂に埋葬されているんだそうな。(上の画像はそのセビリア大聖堂の黄金の祭壇の様子。)
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