ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1451年、フランスのブルゴーニュ地方の街ボーヌに、オスピス・ド・ボーヌ(オテル・デュー)が完成した。


中世ブルゴーニュ公国の宰相ニコラ・ロラン

百年戦争時代のフランスにおいて、フランス王家をもしのいでいたのが、フィリップ・ル・アルディ大胆公(豪胆公)を初代とするヴァロワ家系ブルゴーニュ公国だった。(下の画像はフランス東部ブルゴーニュ古都ディジョンにあるブルゴーニュ公家宮殿。)

フランスのブルゴーニュ地方の古都ディジョンにあるブルゴーニュ公家宮殿

その第3代ブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボン善良公の宰相がニコラ・ロランだった。宰相ニコラ・ロランは、西暦1435年にブルゴーニュ公フィリップ善良公とフランス王シャルル7世とが結んだアラス条約の締結交渉にも参加していたらしい。宰相としての地位を40年以上も保ったんだから、できる人物だったんだろうね。

でも、彼が名を残したのは政治の世界だけじゃないんだ。例えば芸術にも彼は名を残している。フランスの首都パリルーブル美術館に行けばヤン・ファン・エイクの絵「宰相ロランの聖母」を見ることができるんだけど、ここでいう「宰相」がニコラ・ロランだった。つまり彼がヤン・ファン・エイクのその絵の制作を依頼したわけだ。

オスピス・ド・ボーヌあるいはオテル・デュー

でも、宰相ニコラ・ロランが残したものとしては、下の画像にあるオスピス・ド・ボーヌ(あるいはオテル・デュー)を挙げるべきなんだろうね。いや、正確には宰相ニコラ・ロランとその奥方が共同で設立したらしい。

フランスのブルゴーニュ地方のワインの商都ボーヌにあるオスピス・ド・ボーヌ(オテル・デュー)の鮮やかな屋根

この施設が設立されたのが西暦1443年のこと。建物が完成したのが西暦1451年だった。そしてこの色彩鮮やかな建物を見るために、多くの人々がここを訪れるんだ。

貧しく傷ついた人々に無料で癒しを与えたオスピス・ド・ボーヌ

当時のフランスでは、長く続いた百年戦争の為に多くの人々が傷ついていた。このオスピス・ド・ボーヌ(ボーヌ施療院)では、多くの貧しく傷ついた人々に無料で医療などを施していたんだそうな。そんな施設を中世ブルゴーニュ公国の宰相ニコラ・ロラン夫妻は設立したというわけだ。

フランスのブルゴーニュ地方のワインの商都ボーヌにあるオスピス・ド・ボーヌ(オテル・デュー)の内部

上の画像はオスピス・ド・ボーヌ(オテル・デュー)の内部なんだけど、かつてはここに多くのベッドが並んでいたんだろうね。そして奥には祭壇がある。祭壇画「最後の審判」も飾られていたんだそうな。医療で救えない人々には、神の救いを期待したんだろうね。

ブルゴーニュ・ワインの商都ボーヌとオスピス・ド・ボーヌ

言うまでもなく、ブルゴーニュといえばフランスを代表するワインの産地だよね。例えば、グラン・クリュ・ワインの村ジュヴレ・シャンベルタンなどもブルゴーニュの中にある。

そしてオスピス・ド・ボーヌ(オテル・デュー)のあるボーヌの街はブルゴーニュ・ワインの商都でもあった。(下の画像はボーヌの街のワイン博物館。)

フランスのブルゴーニュ地方のワインの商都ボーヌにあるワイン博物館

実はオスピス・ド・ボーヌ(オテル・デュー)で貧しい人々に無料で医療を提供する基盤となっていたのがブルゴーニュのワインだった。つまり、中世ブルゴーニュ公国の貴族たちがワインを生み出すブドウ畑をオスピス・ド・ボーヌ(オテル・デュー)に寄進する。そのブドウ畑から生み出されるワインを売り、その収益が貧しい人々への施療の原資になったというわけだ。

そんなブドウ畑のワインの競売は今でもオスピス・ド・ボーヌで行われている。毎年11月に開催される「栄光の三日間」の中の重要なイベントになっているんだそうな。(ちなみに、「栄光の三日間」という言葉は、一般的には西暦1830年のフランス七月革命に関する用語として使われる。が、このブルゴーニュにおいてはワインのイベントを意味するんだそうな。)

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