連合王国(イギリス)の中の一つの国 ウェールズイギリスの都ロンドンから西へ、ブリテン島の出っ張りの部分にウェールズがある。右の略図では、バンガーがウェールズ北部の中心都市なんだけど、ウェールズはその南側の一帯というわけだね。(バンガーの街には、19世紀の大学と6世紀に遡る大聖堂がある。) まるでイギリスの一つの地方のように思えるウェールズなんだけど、スコットランドと同様にイングランドとは別の一つの国なんだ。 イギリス皇太子の叙任が行われるカーナフォン城バンガーの街から少し西へ行けば、セイオント川の河口に開けたカーナフォンの街がある。その街の中心 カーナフォン城(右の画像)が、イギリス皇太子がプリンス・オブ・ウェールズの叙任を受ける舞台なんだ。
上の画像の中に円形のステージのようなものが見えるね。皇太子はここに立ってプリンス・オブ・ウェールズの称号を受けるんだけど、この円形の舞台はウェールズ北部に広がるスノードンの山々で採れるスレート(薄い板状の粘板岩)で出来ているんだそうな。
ウェールズ北部に広がるスノードンの山々そのスノードンの山々の風景が下の画像。山の少ないイギリスでは、スコットランドと並んでウェールズ北部は山の多い地域なんだ。(余談ながら、スノードンの山頂まではスノードン登山鉄道で行けるから、山歩きをする根性のない私でも行くことが出来たわけだ。)古代から中世にかけて、ケルト系のウェールズ土着の人々は、こんな山々を拠点に古代ローマ帝国やノルマン系イングランド貴族に抵抗していたらしい。故に古代ローマ帝国の軍団は海から連絡をすることの出来る場所(今のカーナフォン)に街を築き、同じ理由でイングランド王エドワード1世もカーナフォン城を築いたんだそうな。
ウェールズを征服したイングランド王エドワード1世ウェールズ土着のケルト系の人々は、侵攻してきたノルマン系のイングランド貴族に対して抵抗を続けていた。しかし、西暦1282年、最後のケルト系のウェールズ君主ルウェリン・アプ・グリフィズが戦死し、ケルト系ウェールズの組織的な抵抗は終息した。(散発的な反乱はしばしば起こったらしい。)ついにウェールズを征服したのは、イングランド王エドワード1世。その王妃は、西暦1284年にカーナフォンで男の子(後のエドワード2世)を出産した。喜んだエドワード1世は、服属してきたウェールズの人々に向かって赤ん坊を掲げ、「ウェールズに生まれたイングランド語を話すことの出来ないプリンスだ !!」と紹介したわけだ。その後、王子はプリンス・オブ・カーナフォンと呼ばれていた。 そして西暦1301年、王子エドワード(後のイングランド王エドワード2世)が、カーナフォン城においてプリンス・オブ・ウェールズの称号を受けた。以後、歴代のイギリス皇太子はその慣行に従っているわけだ。(もちろん、今のチャールズ皇太子も西暦1969年にカーナフォン城でプリンス・オブ・ウェールズの称号を受けている。) ついでながら、チャールズ皇太子は西暦1952年にコーンウォール公にもなっている。実はこの称号は、プリンス・オブ・ウェールズとならんでイギリス王位継承者の称号の一つでもあるんだ。その伝統は西暦1336年に黒太子エドワードが初代コーンウォール公とされてから続いているんだそうな。
ウェールズ人の最後のプリンス・オブ・ウェールズ上に書いたようにイングランド王エドワード1世はウェールズを征服したし、以後は基本的にイングランド王家の皇太子がプリンス・オブ・ウェールズになっている。でも、西暦1400年にウェールズで反乱を起こしたオーウェン・グリンドゥールが土着のウェールズ人の最後のプリンス・オブ・ウェールズともされているんだ。彼はウェールズの豪族の子孫であり、一時期はウェールズのイングランドからの独立を回復するかとも思わせたんだそうな。 ちなみに、西暦2000年には、ウェールズ各地でオーウェン・グリンドゥールの反乱600周年を祝ったらしいよ。
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