ブルゴーニュ公ジャン無畏公とアルマニャック派との抗争西暦1407年、ブルゴーニュ公ジャン無畏公の命によってオルレアン公ルイが暗殺されて後、ブルゴーニュ公とオルレアン派との抗争が激化した。でも、オルレアン公未亡人も亡くなって指導者を失ったオルレアン派は、ブルゴーニュ派との和解を余儀なくされていた。ところが、暗殺されたルイの後継者であるオルレアン公シャルルは、最初の妻を亡くした後にボンヌ・ダルマニャックと再婚。そのボンヌの父はフランス南部に勢力を誇るアルマニャック伯ルナール7世だった。しかも、ボンヌの母は先王シャルル5世賢王の弟ベリー公ジャンの娘だった。 というわけで、オルレアン公シャルルの周囲に新たなグループが形成され、アルマニャック派として結束を固めることとなった。そのこのアルマニャック派とブルゴーニュ派との間に再び抗争が激化することとなったわけだ。(余談ながら、オルレアン公シャルルの父のルイは、西暦1391年にブロワ城を買い取っている。以後、ロワール川のほとりのブロワ城をこの家系が相続していくことになる。)
フランス各地で両派が戦火を交え、特にフランスの首都パリは両派の争奪戦の的となってしまった。(上の画像はフランスの首都パリを流れるセーヌ川とシテ島の夕暮れ。ノートルダム大聖堂も見えている。) イングランド王ヘンリー5世の攻勢とアジャンクールの戦い当時のフランスとイングランドとの間の百年戦争は、しばしの小康状態にあった。でも、フランス国内の混乱を見たイングランド王ヘンリー5世はフランス北部のノルマンディーに上陸し、百年戦争が再発したわけだ。フランスとしてはアルマニャック派とブルゴーニュ派の連携の下にイングランドと戦いたいところだよね。ところが、アルマニャック派はブルゴーニュ派の支援を求めることもなく、他方のブルゴーニュ公ジャン無畏公(サン・プールあるいは無怖公)もイングランドとの戦いには参加しなかった。 フランスでも有数の力を持つブルゴーニュの兵力が参加せず、しかもイングランド軍の戦術はフランス軍よりも優れていた。その結果が、西暦1415年10月のアジャンクールの戦いだった。結果はフランス軍の惨敗。多くの将兵が死傷し、あるいはイングランドの捕虜となったんだ。
大勝に勢いを得たイングランド軍は攻勢をかける。ノルマンディーの要衝であるカーン城もイングランド軍に奪われてしまった。上の画像は、フランス北部ノルマンディーの要衝カーン城とカーンの街並み。カーン城はイングランドを征服したノルマンディ公ウィリアム(イングランド征服王ウィリアム1世)が築いた城だった。
ノルマンディーで孤立無援のモン・サン・ミシェルこうして、フランス北部ノルマンディー地方の殆どがイングランド軍の手中に落ちてしまった。抵抗を続けていたのは、ノルマンディーとブルターニュとの境界にあるモン・サン・ミシェルだけだった。(下の画像は、フランスの誇る世界遺産モン・サン・ミシェルに向かう途中で遠望した様子。)
ちなみに、このモン・サン・ミシェルのフランス軍に対しては、ブルターニュ地方にある中世の港町サン・マロの艦隊が物資を補給したらしい。それが無ければ、モン・サン・ミシェルの抵抗も続かなかっただろうね。
ブルゴーニュ公とイングランド王との間の秘密協定フランス内部はブルゴーニュ派とアルマニャック派とに二分され、他方でイングランド王ヘンリー5世は益々攻勢を強めている。そんなフランスに追い討ちをかけるように、西暦1417年にはブルゴーニュ公ジャン・サン・プール(無畏公あるいは無怖公)がイングランド王ヘンリー5世と秘密協定を結んだ。その協定においては、イングランド王ヘンリー5世とその子孫をフランスの支配者と認めていたらしい。 ブルゴーニュ派との秘密の協力のもとに優勢にことを運ぶイングランド軍。加えてブルゴーニュ派の攻勢も受けて、アルマニャック派を中心とするフランスは劣勢に落ちていった。 ブルゴーニュ公ジャン無畏公(無怖公)暗殺百年戦争の危機を脱するために、アルマニャック派はブルゴーニュ派との和平を求めざるを得ないよね。西暦1419年7月には、両派の和平交渉を始めることで合意が成立した。ところが、その結果として行われたブルゴーニュ公ジャン無畏公(サン・プールあるいは無怖公)とアルマニャック派の中心人物となっていた王太子シャルル(後のフランス王シャルル7世)との交渉は決裂。その直後、ブルゴーニュ公ジャン無畏公(あるいは無怖公)が暗殺された。西暦1419年9月のことだった。 重大な局面での重要人物の暗殺。イングランドとフランスの間の百年戦争、そしてブルゴーニュ派とアルマニャック派との間の内乱は、これから大きな動きを見せていくんだ。
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