フィレンツェにあるピッティ宮殿イタリアの古都フィレンツェを流れるアルノ川の南岸にピッティ宮殿(下の画像)がある。かつてメディチ家やハプスブルク・ロレーヌ家のトスカナ大公が暮らし、近代統一イタリア王国の成立後はそのローマ併合までイタリア王家の宮殿でもあった建物だね。
このピッティ宮殿の建設が始まったのは西暦1458年のこと。その建築主はフィレンツェの銀行家ルカ・ピッティだった。フィレンツェといえばメディチ家が名高いけれども、ルカ・ピッティさんは名門メディチ家の影とも呼べる存在だった。でも、やがて歴史の波に呑まれて姿を消していったんだけどね。
メディチ家のフィレンツェ支配を支えた銀行家ルカ・ピッティこのページの主役ルカ・ピッティ氏は、西暦1398年にフィレンツェに生まれた銀行家だった。そんな彼が壮年期に達した15世紀半ばのフィレンツェは、国父とも称されたコシモ・デ・メディチの実質的な支配下にあったんだ。ところが、国父コシモ・デ・メディチも次第に老いていく。そんな晩年の国父コシモの統治を支えたのが銀行家ルカ・ピッティだった。彼は多くの指導的な市民を権力から遠ざけ、更には街から追放したんだそうな。 そんなルカ・ピッティの強権的な措置によって、コシモ・デ・メディチはフィレンツェの国父であり続けることができたわけだ。(下の画像はピッティ宮殿の奥にあるボボリ庭園から眺めたフィレンツェの風景なんだけど、やはり大聖堂 ドゥオモのドームが印象的だよね。)
とはいえ、銀行家ルカ・ピッティも単なる親切で国父コシモを助けたわけじゃない。その働きに対して彼は巨額の報酬と爵位をメディチ家やフィレンツェ政府から受け取ったんだそうな。そんな財産を以て彼はピッティ宮殿の建設を始めたわけだね。
ピッティ家の窮乏とメディチ家への宮殿の売却晩年の国父コシモのフィレンツェ統治を支えたルカ・ピッティだったけれども、西暦1464年に国父コシモが亡くなってしまった。その後はルカ・ピッティの繁栄にも翳りが見え始め、西暦1465年にはピッティ宮殿の建設工事も中断されてしまった。ルカ・ピッティが西暦1472年に亡くなった後も、その子孫たちはピッティ宮殿に住み続けていたらしい。でも、ピッティ家の衰運は更に続いた。ピッティ家の財政状況は更に悪化し、西暦1549年にはやむなく宮殿をメディチ家(西暦1540年からヴェッキオ宮殿に住んでいた)に売却せざるを得なくなったわけだ。 フィレンツェを流れるアルノ川の南岸にあるピッティ宮殿に移り住んだメディチ家の大公コシモ1世は、ヴェッキオ橋の上にヴァザーリの廊下(下の画像)を築かせている。その廊下を渡って、ピッティ宮殿と政庁との間を往復したそうな。
ついでながら、ピッティ宮殿の奥のボボリ庭園の中にあるカフェが、上の画像の中の青い矢印の先にある。そのカフェから眺めるフィレンツェの風景が素晴らしいんだ。ボボリ庭園を歩いたら、是非ともそのカフェでひと休みして欲しいね。
ピッティ宮殿の中のパラティナ美術館ピッティ家から宮殿を買い取って移り住んだメディチ家なんだけど、やがて西暦1737年にはメディチ家は断絶し、トスカナ大公位はハプスブルク・ロレーヌ家によって継承されてしまった。そして西暦1833年、ピッティ宮殿の中にあるパラティナ美術館が公開された。
上の画像はそんなパラティナ美術館にあるラファエロの「大公の聖母」。メディチ家からトスカナ公国を引き継いだハプスブルク・ロレーヌ家の大公フェルディナンド3世が眠るときにもベッドの脇に飾っていたという作品なんだ。(パラティナ美術館には他にもラファエロの聖母がある。)
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