ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1456年、ドラキュラのモデルとなった串刺し公ヴラッド・ツェペシュがワラキア公となった。(ルーマニア)


ドラキュラのモデルとなった
串刺し公ヴラッド・ツェペシュ

ドラキュラのモデルとなったワラキアのヴォエヴォド(君主)串刺し公ヴラッド・ツェペシュの肖像画 現在のルーマニアの一部をなすワラキア公国に、ドラキュラのモデルとなった串刺し公ヴラッド・ツェペシュ(右の肖像画)という人物がいた。

15世紀後半にワラキア公となり、押し寄せてくるオスマン・トルコ軍と戦ったルーマニアの英雄なんだそうな。他方でトルコ兵や反抗的な貴族・商人たちを串刺しの刑に処したとされる人物でもある。このページでは、その興味深い人物に焦点をあててみるかな。

串刺し公ヴラッド・ツェペシュの誕生
(ワラキア、ルーマニア)

串刺し公ヴラッド・ツェペシュは、現在のルーマニアの一部をなすワラキアの名門の生まれだったんだ。父の悪魔公ヴラッド・ドラクルは、オスマン・トルコとの戦いの功績によって、神聖ローマ帝国の皇帝からドラゴン騎士団の騎士に叙任された人物だった。

祖父のミルチャ老公は、ワラキア公としてオスマン・トルコとの戦いを続けた人物。そのまた祖父は、ワラキア軍を率いてハンガリー王の軍を撃ち破り、ワラキア公国に独立をもたらした人物だった。

串刺し公ヴラッド・ツェペシュが生まれたトランシルヴァニアの街シギショアラ(ルーマニア) ワラキア公国の名門の血を引くヴラッド・ツェペシュが生まれたのは、西暦1431年のこと。場所は、トランシルヴァニアの街シギショアラだった。

右の画像は現在のシギショアラの様子なんだけど、画像の奥に見える時計塔は14世紀の建物。その右下に見える黄色い建物で串刺し公は生まれたといわれている。

1444年、父のワラキア公ヴラッド2世がオスマン・トルコに従属していた関係で、ヴラッド・ツェペシュと弟のラドゥは人質としてオスマン・トルコに送られた。

1447年、父の悪魔公ヴラッド2世と兄のミルチャが暗殺され、ライバルのダネスティ家にワラキア公位が移った。

ワラキア公となった串刺し公ヴラッド・ツェペシュ

1448年、かつて人質生活を送ったオスマン・トルコの支援を得たヴラッド・ツェペシュが、ワラキア公となった。しかし、その数ヵ月後、トランシルヴァニアの支援を得たダネスティ家のヴラディスラフ2世が、ワラキア公位を奪い返した。

1456年、トランシルヴァニア公の支援を得たヴラッド・ツェペシュが、ワラキア公に返り咲いた。復帰後の彼は、ワラキア貴族を抑圧し、ワラキア公国の中央集権化を進めようとしていた。

他方でワラキアの商人を保護しようとしていたヴラッド・ツェペシュは、ワラキアに商権を持っていたトランシルヴァニアの街ブラショフのドイツ系商人たちと対立を深めた。

1459年、ワラキア公ヴラッド・ツェペシュは、反抗的な国内の貴族やブラショフの商人たちを串刺し刑に処した。

1460年、ダネスティ家の前ワラキア公ヴラディスラフ2世の息子ヴラディスラフ・ダンがワラキアに侵攻した。しかし、敗れたヴラディスラフ・ダンと貴族たちは捕らえられ、串刺し刑に処された。

オスマン・トルコとの戦いと幽閉

1462年、串刺し公ヴラッド・ツェペシュは、オスマン・トルコのメフメト2世が派遣した使者を串刺し刑に処した。

対して、メフメト2世はオスマン・トルコの大軍を率いて北上。しかし、串刺し公はゲリラ戦・奇襲・夜襲をもって多くのトルコ兵を殺し、串刺しにした。多くの犠牲者を出したメフメト2世のオスマン・トルコ軍は、ルーマニアから撤退。串刺し公ヴラッド・ツェペシュの勝利は、キリスト教ヨーロッパ諸国に知れ渡ったんだそうな。

しかし、オスマン・トルコとの戦いに疲れたワラキアの貴族たちは、串刺し公の弟のラドゥをワラキア公とした。公位を失った串刺し公はトランシルヴァニアに亡命。しかし、ハンガリー王によって幽閉されてしまった。

串刺し公ヴラッド・ツェペシュの復活と死

串刺し公が幽閉された後のワラキア公国では、政治的な混乱が続いていた。オスマン・トルコとの戦いの為にワラキアに同盟者を必要としていたハンガリー王マーチャーシュは、幽閉していた串刺し公ヴラッド・ツェペシュを解放し、ワラキア公とすることを決意。

1475年、ハンガリー王マーチャーシュは、トランシルヴァニアの街シビウに命じて、串刺し公を経済的に支援させた。(下の画像は、トランシルヴァニアの街シビウの風景。どことなくドイツ的な雰囲気がある。)

トランシルヴァニアの街シビウの風景(ルーマニア)

1476年、ハンガリーとモルドヴァの連合軍に参加した串刺し公ヴラッド・ツェペシュは、オスマン・トルコ軍との戦いを繰り広げ、再び対トルコの英雄となった。

その年、串刺し公ヴラッド・ツェペシュがブカレストを占領し、オスマン・トルコと手を結んでいたワラキア公ライオタ・バサラブを追放し、自ら三度目のワラキア公位についた。

しかし、その翌年の西暦1477年(あるいは1476年末)、ブカレスト近郊でのオスマン・トルコとの戦いにおいて、串刺し公ヴラッド・ツェペシュが戦死した。(ワラキア貴族による謀殺との説もある。)

串刺し公ヴラッド・ツェペシュの死後、ワラキア公国はオスマン・トルコの属国となっていったんだそうな。

串刺し公ヴラッド・ツェペシュとイギリス王家

ドラキュラのモデルともされる串刺し公ヴラッド・ツェペシュがイギリスの首都ロンドンに蘇ったわけじゃないけれども、今のイギリス女王エリザベス2世やチャールズ皇太子はワラキア公ヴラッド・ツェペシュと血縁関係にあるらしい。西暦2011年に収録されたテレビ局のインタビューで、イギリスのチャールズ皇太子が明言したらしいよ。

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