オスティアの戦いに勝利を得たキリスト教徒連合艦隊西暦711年、スペイン南部アンダルシア地方のジブラルタルに上陸したイスラム教徒がイベリア半島を征服した。西暦740年にはフランス南部コート・ダジュールの岩山の村エズがイスラム教徒によって征服された。西暦827年、イスラム教徒がシチリアの征服を始めた。そして西暦846年、カトリックの中心でもあるイタリアの首都ローマがイスラム教徒によって略奪された。そんなヨーロッパの危機の時代にキリスト教徒の連合艦隊がイスラム教徒の艦隊に対して勝利を得たのが、西暦849年のオスティアの戦いだった。
その戦いを描いたのが上の画像にあるラファエロの工房によるフレスコ画「オスティアの戦い」なんだけど、ローマのヴァティカン美術館・博物館の火災の間で見ることができるんだ。
外的に対して無防備だったサン・ピエトロ大聖堂「永遠の都」と称されるローマなんだけど、歴史上は何度も外的に襲われている。例えば、紀元前387年にはケルト系ガリア人がローマを略奪している。ヨーロッパの大部分と地中海を制覇した古代ローマ帝国の時代となって後も、北方のゲルマン系の人々の脅威に備えるために、皇帝アウレリアヌスがローマを守る城壁を築いているんだ。それが今もローマに残るアウレリアウンスの城壁だね。
ところが、皇帝ネロによるキリスト教徒に対する迫害の時代に殉教した聖ペテロの墓の上に建立されたサン・ピエトロ大聖堂を中心とするヴァティカン(上の画像)は、アウレリアヌス城壁の外にあった。そんな無防備なヴァティカンを略奪したのが、西暦846年にティベレ川を遡ってきたイスラム教徒の海賊たちだった。
ローマ教皇レオ4世とオスティアの戦い西暦847年、新しいローマ教皇レオ4世が即位した。その年、サンタンジェロ城付近のボルゴ地区で火災が発生したんだけど、教皇レオ4世が手で十字を切ると火が鎮まったんだそうな。その様子を描いたのが、下の画像にあるラファエロ工房のフレスコ画「ボルゴの火災」(「オスティアの戦い」と同じくヴァティカン宮殿の「火災の間」にある)なんだ。
そんなローマ教皇レオ4世は、ヴァティカンやローマを守り、イスラム教徒の艦隊と戦う為にナポリやアマルフィなどの街と同盟し、キリスト教徒の連合艦隊を組織したんだ。その結果が西暦849年のオスティアの戦いにおける勝利だった。ちなみに、キリスト教徒連合艦隊は教皇レオ4世の祝福を受けて出撃し、イスラム教徒艦隊を撃ち破ったんだそうな。
ちなみに、アマルフィ艦隊は西暦872年にもイスラム艦隊を撃ち破っている。その結果、カプリ島(青の洞窟で名高い)を得たらしいよ。
レオニーネの城壁を完成させたローマ教皇レオ4世そんなオスティアの戦いの前年、つまり西暦848年に始まったのが、ヴァティカンを取り囲む城壁を築く工事だった。ヴァティカンの守りを固める為にローマ教皇レオ4世が命じたものだった。そしてオスティアの戦いが起こった。その勝利の結果、多くのイスラム教徒の海賊たちを捕虜にしたんだけど、彼らはヴァティカンを囲む城壁を築く現場で働かされたんだそうな。
その結果、西暦852年に完成したのが、今もヴァティカンを取り囲む上の画像の城壁なんだ。ローマ教皇レオ4世の名にちなんで、レオニーネの城壁と呼ばれている。
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