混迷のフランク王国とヴァイキング(ノルマン人)西暦814年、広大な帝国を築き上げたフランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)が亡くなった。その権力を継承した彼の子孫たちによって帝国は分割され、更に領土と帝冠をめぐって王たちの争いが続き、大帝が築き上げた権力は弱体化していったんだ。同じ頃、ノルウェーなどのスカンディナヴィア地方に住んでいたヴァイキング(入り江の人々)あるいはノルマン人(北方の人々)は、商人として、あるいは略奪者として、海を渡り始めていたんだ。
西暦843年、かつてカール大帝(シャルルマーニュ)が築き上げたフランク王国の三分割(今のフランス・ドイツ・イタリアの始まりとも言える)を定めたヴェルダン条約が締結されたその年、フランスのロワール川に面した街ナントがヴァイキングによって襲撃された。(上の画像は、そのロワール川の風景。そのほとりにブロワ城やシュノンソー城がある。)
セーヌ川を遡ってパリを略奪したヴァイキング(ノルマン人)西暦844年にはヴァイキングたちは今のポルトガルの首都リスボンやスペイン南部アンダルシア地方の古都セビリアなどで略奪を行っている。当時のイベリア半島は西ゴート王国を滅ぼしたイスラム教徒の支配下にあったんだけどね。その翌年の西暦845年、ヴァイキング(ノルマン人)たちは今度はフランス北部のノルマンディーからセーヌ川を遡った。
上の画像は、そのノルマンディーを流れるセーヌ川とそのほとりのレザンドリの街の風景なんだけど、後にフランスとイギリスの間で争奪戦となるガイヤール城から見下ろした眺めなんだ。
ヴァイキング(ノルマン人)の襲撃とパリ伯カペー家それから40年が経った西暦885年、再びヴァイキング(ノルマン人)がパリを襲った。当時の西フランク王シャルル肥満王は、窮地に陥ったパリのためにヴァイキング(ノルマン人)と戦おうとはしなかったらしい。他方、パリ防衛のために奮闘したのは、パリ伯カペー家だった。その活躍と名声によって、後にカペー家がフランスの王位を得る(カペー朝フランス王国の成立)ことになるんだ。 上の画像は、夕暮れのパリを流れるセーヌ川。中央にはシテ島が見えるね。そこに立つ聖堂が、ノートルダム大聖堂だ。シルエットしか見えないけどね。夕闇に沈んでいくフランスの首都パリの風景だね。
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