ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1745年、スチュアート家のボニー・プリンス・チャーリーがエディンバラ城を攻撃。(スコットランド、イギリス)


スコットランド王家のエディンバラ城(イギリス)

イタリアのローマから発してブリタニア(イギリス)に進出した古代ローマ帝国の兵士たちがブリタニアから撤退してしばらく経った6世紀末、ディン・エイディンという地名が記録に現れた。

その地名が指していた場所は、イギリス北部のスコットランドにある現在のエディンバラなんだけど、その「ディン・エイディン」がエディンバラという名前の源であるとの説もある。

7世紀前半、ノーザンブリア王エドウィンがスコットランドの南東部に侵攻した。そのノーザンブリア王「エドウィンの街(あるいは城)」がエディンバラという地名の由来だとも言う。

スコットランドのエジンバラ城(イギリス)

そして11世紀後半、スコットランド王マルカム3世と王妃マーガレットが、現在のエディンバラ城のあたりに狩のための小屋を建てたらしい。それが発達して現在のエディンバラ城(上の画像)になったんだそうな。(マルカム3世はシェイクスピアが描いたマクベスを殺した人物。)

エディンバラ城の波乱の歴史
スコットランドとイングランドの争奪戦

大きな岩山(キャッスル・ロック)の上からスコットランドの首都エディンバラの街を見下ろすエディンバラ城。その歴史は波乱に満ちている。

  • 1174年、スコットランド王ウィリアム1世がアルンウィックの戦いでイングランドに捕らえられた。その身代金の担保として、エディンバラ城はイングランド軍に引き渡された。

  • 1296年、イングランド王エドワード1世がエディンバラ城を攻略した。イングランド王エドワード1世は、更に進んで1303年にはネス湖のほとりのアーカート城まで攻略している。

  • 1314年、ロバート・ザ・ブルース(後のスコットランド王)の甥サー・トーマス・ランドルフが、イングランドの手にあったエディンバラ城に奇襲をかけて攻略した。

  • 1335年、イングランド王エドワード3世がエディンバラ城を攻略した。

  • 1336年、イングランド軍の手中にあったエディンバラ城を、スコットランドの護国卿サー・ボスウェルが攻囲したが、攻略に失敗。

  • 1341年、ウィリアム・ダグラス伯によって、スコットランド軍がエディンバラ城を奪還した。

  • 1385年、イングランドのランカスター公がエディンバラの街に焼き討ちをかけた。しかし、エディンバラ城は陥落しなかった。

  • 1500年、イングランド王ヘンリー7世がエディンバラ城を攻囲したが、陥落しなかった。

  • 1571年、退位させられたスコットランド女王メアリー・スチュアートを支持する貴族たちが、エディンバラ城に立て籠もった。彼らは1573年まで篭城を続けた。

  • 1640年、内戦によってエディンバラ城が重大な被害を蒙った。

  • 1650年、イングランドのオリヴァー・クロムウェルがエディンバラを攻略した。その前年には、スコットランドのスチュアート王家の出身のイギリス王チャールズ1世が清教徒革命によって処刑されていた。
そんなこんなで、エディンバラ城は数百年に渡って戦いの舞台となってきたわけだ。

スチュアート家と名誉革命とエディンバラ城

西暦1649年の清教徒革命でイギリス王チャールズ1世が処刑され、王位を失ったスチュアート家だった。ところが、西暦1651年にはチャールズ1世の息子のチャールズ2世がスコットランドの古都パースのスクーン・パレスでスコットランド王として戴冠した。しかし、クロムウェルに敗れて海外に亡命し、イングランドもスコットランドもクロムウェルの支配下に入ったんだ。

ところが、西暦1658年にクロムウェルが亡くなった。そして西暦1660年にはスチュアート家のチャールズ2世がイングランドとスコットランドの両方の王位を回復し、王政復古となった。

そして西暦1688年、チャールズ2世の弟の王ジェームズ2世に息子が生まれた。カトリックの王ジェームズ2世の王位をその息子が継承すれば、今後もカトリックの王の支配が続くと心配したプロテスタントの人々は、王位をオランダのオレンジ公ウィリアムに提供したわけだ。スコットランド王ジェームズ7世(イングランド王ジェームズ2世)は海外に逃亡し、名誉革命が成就したというわけだ。

スコットランド・ポンド紙幣に描かれたエジンバラ城(イギリス)

こうしてスコットランドから出たスチュアート家は再び王位を失った。しかし、名誉革命に反対し、スチュアート家を支持する貴族が西暦1689年にエディンバラ城(上の画像はスコットランド・ポンド紙幣に描かれたエディンバラ城)に籠城。しかし、飢餓と疫病により降伏を余儀なくされた。

王位回復を目指すスチュアート家とジャコバイトとエディンバラ城

その後、イングランドとスコットランドの王位は、ジェームズ1世(6世)のひ孫にあたるドイツのハノーバー家に移った。しかし、このハノーバー家のスコットランド王を歓迎せず、スチュアート家の王位回復を望む人々もスコットランドにはいたらしい。

そんなスコットランドのジャコバイトたちは、亡命中の西暦1701年に亡くなった元のスコットランド王ジェームズ7世(イングランド王ジェームズ2世)の息子をスコットランド王ジェームズ8世と考えていた。しかも、カトリック勢力であるフランスやスペインも、同じくスチュアート家のジェームズ8世を王として承認していたんだそうな。

そしてハノーバー家の王ジョージ1世の即位の翌年の西暦1715年、スコットランドのジャコバイトが兵を起こし、スチュアート家のジェームズ8世をスコットランド王と宣言したんだそうな。しかし、ジャコバイトの軍はハノーバー家の政府軍に敗れ、反乱は失敗に終わり、ジェームズ8世はフランスに逃亡したらしい。

ところが、スチュアート家もジャコバイトもこれで諦めてはいなかった。フランスに逃亡したジェームズ8世の息子ボニー・プリンス・チャーリー(正しくはチャールズ・エドワード・スチュアート)が西暦1745年にスコットランドのヘブリディーズ諸島に上陸し、ハイランドの兵を集めてスコットランドを占拠した。

スコットランドのエジンバラ城(イギリス)

ボニー・プリンス・チャーリーの率いるハイランドのジャコバイトたちは、エディンバラの街も占拠したらしい。しかし、政府軍の守るエディンバラ城(上の画像)は落ちなかった。エディンバラ城にとっては、これが最後の戦いになったんだそうな。

但し、スチュアート家のボニー・プリンス・チャーリーとジャコバイトの兵士たちの戦いはまだ続くんだ。でも、また長くなるから、その話は別のページで書くことにするかな。(既にこのページも長いけど ・・・ 。)

エディンバラ城を舞台とするミリタリー・タトゥー

スコットランドとイングランドの長い戦いの歴史の中で、何度も争奪戦の的となったエディンバラ城。その城を特設の舞台として、夏の夜に多くの人々を集めるのが、エディンバラ・フェスティヴァルの一環として催されるミリタリー・タトゥー(下の画像)なんだ。

スコットランドのエジンバラ城で行われるミリタリー・タトゥー(イギリス)

エディンバラ城のミリタリー・タトゥーは毎年8月に開催されるんだけど、良い席を確保するには、かなり早く予約しておいた方が良いよ。私の経験から言えば、半年前に予約しても遅すぎるかもしれないくらいだな。とにかく人気のあるエディンバラでお薦めのイベントだね。

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