イタリア・バロックの画家カラヴァッジョイタリア・バロックの画家カラヴァッジョは、西暦1571年にイタリア北部の街ミラノで生まれている。少年時代に両親と死に別れた彼は、ミラノで画家の徒弟として修行をしたらしい。やがてカラヴァッジョは西暦1592年頃にローマに移っている。ケンカ沙汰の故にミラノにいられなくなったんだそうな。ローマで画家の下で働き始めた彼は、数年の内に画家として独立し、やがて名声を得ていったそうな。 西暦1600年頃には、カラヴァッジョはローマでも最も名高い画家となっていた。その頃の作品が、例えばローマのポポロ広場にあるサンタ・マリア・デル・ポポロ教会のチェラージ礼拝堂で見ることの出来る「聖ペテロの逆さ磔」や「聖パウロの改宗」だった。 光と影の強烈なコントラスト、そして写実的で自然主義的なカラヴァッジョの絵は、高い評判を呼ぶと共に人々の論争をも巻き起こした。そんな彼が「蛇の聖母」(あるいは「馬丁たちの聖母」「聖アンナと聖母子」)を描いたのが西暦1606年のことだった。
カラヴァッジョの「蛇の聖母」は、サン・ピエトロ大聖堂の一画に飾られたそうな。(上の画像はサン・ピエトロ大聖堂の中のベルニーニのブロンズのバルダッキーノの脇から後陣の聖ペテロの司教座を眺めた様子。)
殺人犯カラヴァッジョとマルタ島でのケンカ騒ぎところが、その同じ年にカラヴァッジョは人を殺してしまい、殺人犯としてローマを逃げ出したんだ。イタリア南部の街ナポリに逃げ込んだ彼は、しばらくそこで貴族に匿われ、作品を残してもいる。でも、続いてカラヴァッジョは聖ヨハネ騎士団の島マルタに移っている。下の画像はマルタ島の首都ヴァレッタに残るかつての聖ヨハネ騎士団の騎士団長宮殿の中庭。(但し、聖ヨハネ騎士団の今の本部はローマのスペイン広場に近いコンドッティ通りにあるんだけどね。)
ところが、西暦1608年にはマルタ島でもカラヴァッジョはケンカ騒ぎを起こし、騎士にケガを負わせてしまった。再び逃げ出した彼は、シチリアに向かっている。
ナポリで襲われたカラヴァッジョ数ヶ月に渡ってシチリアにとどまったカラヴァッジョは、再びナポリに向かっている。そのナポリでもいくつかの作品を残しているんだ。
ところが、西暦1609年にはカラヴァッジョがナポリで襲われるという事件があったらしい。ケンカ騒ぎの相手に襲われたとも言われているね。カラヴァッジョらしいかな。(上の画像はナポリの街角の風景。)
恩赦直前にローマ近くで亡くなったカラヴァッジョこの頃のカラヴァッジョは「ゴリアテの首を持つダヴィデ」という作品を残しているんだけど、ダヴィデが左手でぶら下げているゴリアテの首は、カラヴァッジョの自画像だとも言われているね。贖罪の為に描いた絵であると解されているんだそうな。そんな画家カラヴァッジョに対してローマ教皇が恩赦を出すという話が持ち上がっていたらしい。その恩赦を期待したカラヴァッジョはローマへと向かった。でも、ローマの近くまでたどり着いたところで、彼は熱病で亡くなってしまったんだそうな。西暦1610年のことだった。 そんなこんなで極めてユニークな作品を描いてイタリア・バロックを切り開いた画家カラヴァッジョは、38歳で亡くなっている。でも、多くのバロックの芸術家が彼の影響を受けているんだそうな。
例えばベルギーの画家ルーベンス。ベルギーの街アントワープのノートルダム大聖堂でルーベンスの絵を見ることが出来るね。そしてベルニーニ。彼の作品はローマのあちこちにあるけれども、ベルニーニの作品もカラヴァッジョの作品もいずれも見ることができるということでは、必見なのはボルゲーゼ美術館(上の画像)かな。サン・ピエトロ大聖堂から撤去されたカラヴァッジョの「蛇の聖母」もあるんだ。
カラヴァッジョの作品はイタリアの古都フィレンツェのピッティ宮殿内のパラティナ美術館でも見ることが出来る。といっても、メディチ家の支援によってイタリア・ルネサンスの華が咲いたフィレンツェということもあり、パラティナ美術館ではラファエロの聖母などの方が目玉になっちゃうけどね。
カラヴァッジョと同様に殺人などの罪を犯した暴れん坊の芸術家に、イタリアのマニエリズムの彫刻家チェッリーニがいる。でも、彼はメディチ家のコシモ1世の庇護を受け、カラヴァッジョとは対照的に静かな晩年を過ごしたんだけどね。そんな彼が制作したトスカナ大公コシモ1世の胸像がフィレンツェのバルジェッロ博物館にある。
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