ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1519年、フィレンツェでウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチ(小ロレンツォ)が亡くなり、メディチ家兄脈嫡流男系が途絶えた。


フィレンツェから追放されたメディチ家の御曹司

メディチ家といえば、フィレンツェのみならずイタリア、更にはヨーロッパを代表する名家だった。そんなメディチ家に西暦1492年に生まれた御曹司が、このページの主役であるロレンツォ・デ・メディチ(小ロレンツォあるいはロレンツォ2世、後にはウルビーノ公)なんだ。

国父コジモ・デ・メディチの嫡流、ロレンツォ・イル・マニフィコ(大ロレンツォ)の長男ピエロのそのまた長男が小ロレンツォ(ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチ)というわけで、苦労のクの字も知らずに育つ ・・・ と思うよね。ところが彼がわずか 2歳の時にイタリアを襲った大嵐に巻き込まれたんだ。

西暦1494年、フランス王シャルル8世がイタリアに侵入した。親戚のルネ・ダンジューから権利を継承したと主張し、ナポリを我が物としようと軍を起こしたわけだ。(下の画像はナポリのサンタ・ルチアからの眺めなんだけど、遠くに見えているのはポンペイを滅ぼしたヴェスヴィオ火山だね。)

イタリア南部ナポリのサンタ・ルチアから眺めたヴェスヴィオ火山

そのフランス王シャルル8世に対する対応を誤ったのが小ロレンツォの父親のピエロ・デ・メディチ(不運のピエロ)だった。彼の弱腰の外交、フランス王に対する屈辱的な姿勢はフィレンツェの人々を怒らせ、メディチ家の人々は追放されてしまった。

あちこちを転々とした不運のピエロ・デ・メディチは、やがてチェーザレ・ボルジアの軍に加わった。ところが、その軍がナポリ近くで戦った際、不運のピエロは川で溺れて亡くなってしまった。2歳で生まれ故郷のフィレンツェから追放された小ロレンツォは、11歳で父親を失ってしまった。

フィレンツェの統治者ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチ

イタリアの古都フィレンツェのアカデミア美術館にあるミケランジェロのダヴィデ像 その後のフィレンツェは修道士サヴォナローラの統治下にあった。でも、ローマ教皇アレクサンデル6世によって破門された彼は、結局はシニョーリア広場で処刑されてしまった。

その後のフィレンツェは共和政権によって統治される。あの名高い「君主論」を書く前のマキャベリが働いていたのはその頃のことだね。

余談ながら、ミケランジェロのダヴィデ像(右の画像)が制作されたのも、その頃のことだった。西暦1503年、フィレンツェでは芸術家たちによる特別委員会が開催された。

委員会の討議のテーマは、共和国の自律と自治のシンボルであるダヴィデ像をどこに置くかということ。その結論は政治の中心であるシニョーリア広場に置くというもの。

但し、今のシニョーリア広場にあるダヴィデ像はレプリカだからね。ダヴィデ像のオリジナルはアカデミア美術館に移されたんだ。

ところが、不運のピエロの弟(つまりは小ロレンツォの叔父さん)にして枢機卿となっていたジョヴァンニ・デ・メディチは教皇庁でメディチ家のフィレンツェ復帰を目指して動いていた。そして西暦1512年、教皇庁やスペインなどの力を借りたメディチ家がフィレンツェに復帰したわけだ。その翌年には枢機卿ジョヴァンニはローマ教皇レオ10世として即位している。

ローマ教皇レオ10世がフィレンツェの統治者としたのは、彼の弟のジュリアーノ・デ・メディチだった。彼は西暦1515年にフランス王フランソワ1世からヌムール公とされている。ところが、西暦1516年にはヌムール公は亡くなってしまった。

次いでフィレンツェの統治者となったのが、メディチ家の御曹司ロレンツォ・デ・メディチ(小ロレンツォあるいはロレンツォ2世)だった。彼はまた叔父の教皇レオ10世の力によって、ウルビーノ公ともなっている。

ウルビーノ公ロレンツォの死、メディチ家兄脈嫡流男系の断絶

そんなこんなでメディチ家の期待の星としてフィレンツェの統治者とされた小ロレンツォなんだけど、その 3年後にはあっさりと亡くなってしまった。その死因は梅毒だったとの説もある。

イタリアの古都フィレンツェのサン・ロレンツォ教会のメディチ家礼拝堂の新聖具室にあるウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチの墓

そんなウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチ(小ロレンツォ)が葬られたのが、フィレンツェのサン・ロレンツォ教会の一角にあるメディチ家礼拝堂の新聖具室だった。上の画像が彼の墓碑なんだけど、ミケランジェロによって制作されたものらしいよ。

いずれにせよ、小ロレンツォの死によって、フィレンツェの名家メディチ家の正統である兄脈嫡流男系は途絶えてしまった。小ロレンツォの叔父である教皇レオ10世がいるとはいえ、彼は聖職者である上にもう若くもなかったからね。

フランス王妃カトリーヌ・ド・メディチ

小ロレンツォが亡くなる1ヶ月前に一人の女の子が生まれた。小ロレンツォの唯一の子供であるカトリーヌ・ド・メディチだった。彼女は西暦1533年にフランスの王子アンリ(後のフランス王アンリ2世)と結婚している。(下の画像はフランスの首都パリの郊外にあるサン・ドニ大聖堂で見たアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディチの像。)

フランスの首都パリの近郊にあるサン・ドニ大聖堂で見たフランス王アンリ2世と王妃カテリーナ・ド・メディチの像

カトリーヌは多くの子供を産み、そのうちの3人がフランス王となっている。でも、彼女の息子たちはいずれも若くして亡くなり、やがてフランス王位は傍系のブルボン家出身のアンリ4世によって引き継がれることになった。

彼女の実家であるメディチ家の本宗家も断絶し、やがて傍流である弟脈出身のコシモ1世がフィレンツェ大公となる。彼女の祖父、小ロレンツォの父であるピエロ・デ・メディチの不運が子や孫にまで受け継がれてしまったということなのかな。

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