ハプスブルク家に嫁いだスペインのカトリック両王の王女フアナ西暦1496年10月、今のベルギーの首都ブリュッセル近郊で結婚式が挙行された。(下の画像はブリュッセルの中心にあるグラン・プラスに面して立つ王の家の夜景。)
その結婚式の主役である新婦はスペインの王女にして間もなく17歳になろうとしているフアナ。その母親はカスティーリャ王イサベル1世、父親はフアナ誕生の年に即位したアラゴン王フェルナンド2世だった。つまり、フアナはスペインに残った最後のイスラム国家ナスル朝の古都グラナダを征服し、アルハンブラ宮殿に十字架をかけ、レコンキスタを完了させたカトリック両王の王女だった。
スペイン王位の継承者となった王女フアナカトリック両王の王女フアナは、より良い政略結婚の為にしっかりとした教育を受けていた。カスティーリャ語などのスペインの言葉はもちろん、フランス語やラテン語なども流暢にあやつることができたらしい。でも、フアナはスペイン王位の継承者として期待されていたわけじゃなかった。ところがカトリック両王の唯一の男子だった兄フアンが亡くなり、その娘も死産であり、姉イサベルも亡くなり、姉の息子が夭折し、結局のところ王女フアナがスペイン王位の継承者になってしまったんだ。ちなみに、フアナの妹たちもいたけどね。例えばイングランド王ヘンリー8世の王妃キャサリン(やがて離婚し、ヘンリー8世はアン・ブーリンと再婚)とかね。 西暦1502年、母親イサベル1世のカスティーリャ王国の議会も父親フェルナンド2世のアラゴン王国の議会も王位継承者として王女フアナを認めた。その忠誠の誓いを受けるために王女フアナとフィリップ美公はスペインを訪れている。ところが、出産を控えた王女フアナをマドリッドに残し、フィリップ美公はベルギーに戻ってしまった。当時のヨーロッパの先進的な産業地帯に生まれ育ったフィリップ美公は、スペインが好きにはなれなかったらしい。
上の画像はスペインの首都マドリッドにあるレティロ公園の水辺の風景なんだ。この公園はフアナの母親のイサベル1世が作らせた隠遁所が起源だったそうな。マドリッドに残された王女フアナも時にはここで過ごしたかもしれないね。
カスティーリャ女王フアナと父と夫と息子西暦1504年、王女フアナの母親にしてスペインのカトリック両王の一人だったカスティーリャ女王イサベル1世が亡くなった。王位継承者とされていた王女が、カスティーリャ女王フアナとして即位した。ご主人のフィリップ美公も女王の結婚相手という限りでカスティーリャ王フェリペ1世となっている。それから2年後の西暦1506年、女王フアナとフェリペ1世はネーデルラントを出航し、スペインに向かった。ところが船が難破し、イングランドに上陸することになってしまった。そのイングランドではまだ王太子だったヘンリー8世とその妃となっていた妹のキャサリン(離婚は先のこと)が、ロンドン郊外のウィンザー城で歓迎してくれたらしい。 その3ヵ月後にはスペインに帰国し、夫フェリペ1世と共に統治を始めている。ところが、それから半年も経たない西暦1506年9月に夫フェリペ1世が急死してしまった。チフスによるものだったと言われる。でも、カスティーリャ王国の統治をめぐって争っていたフアナの父親のアラゴン王フェルナンド2世による毒殺だったとも言われる。真相はわからないけど。 カスティーリャ女王フアナは自ら国を統治しようとしたらしい。ところが、秩序も財政も乱れてしまった。やむなく女王の意思に反して大司教シスネロスを筆頭とする貴族たちが国政をまとめようとした。でも、ペストの流行や飢餓などもあり、カスティーリャ王国の政治は危機に陥ったらしい。(下の画像はスペインの古都トレドの大聖堂。ここに大司教シスネロスの司教座があった。)
結局、事態を収拾したのは女王フアナの父親にしてカトリック両王の残る一人であるアラゴン王フェルナンド2世だった。女王フアナはメンタルな病気であるとして修道院に幽閉されてしまった。
古都グラナダの王室礼拝堂に埋葬されたスペイン女王フアナ息子のカルロス1世が太陽の沈むことの無い帝国スペインに君臨する一方で、その母親の女王フアナは幽閉され続けていた。40年近い幽閉の後、西暦1555年にスペイン女王フアナが亡くなっている。
女王フアナが埋葬されたのは、スペイン南部アンダルシア地方の古都グラナダの王室礼拝堂の中、両親であるカトリック両王の墓の隣だった。(上の画像はそのグラナダの王室礼拝堂にある女王フアナの墓の様子。)
All rights reserved 管理・運営 あちこち三昧株式会社 このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。 |