ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1513年、ヴァロワ朝フランス王ルイ12世がイタリア北部にあるミラノを放棄した。


フランス王家とナポリとイタリア戦争

西暦1264年、カペー朝フランス王ルイ9世(シャルトル大聖堂パリシテ島にサント・シャペルを建てた人物)の弟でアンジュー家のシャルルが、ローマ教皇からイタリア南部にあるナポリの王とされた。ところが、西暦1442年にスペインのアラゴン家のシチリア王アルフォンソ1世がナポリを征服した。実はここから長い話が始まるわけだ。

イタリア南部にあるナポリを失ったアンジュー家なんだけど、その子孫のシャルル(ルネ・ダンジューの甥)が西暦1481年に遺言を残して亡くなった。その遺言によれば、アンジュー家が権利を持つプロヴァンスとナポリ王国を、親戚であるヴァロワ家のフランス王ルイ11世に譲るというんだ。

イタリア南部の都市ナポリにある王宮

そこから15世紀末から16世紀半ばにかけて、歴代のフランス王がイタリアを支配しようと戦った「イタリア戦争」が始まるわけだ。(上の画像はイタリア南部の都市ナポリにある王宮。)

ついでながら、フランス王家は長く続いた百年戦争を終わらせ、しかもフランス王をも上回る勢力を持っていたブルゴーニュ公家が断絶してブルゴーニュ地方をも継承したことで、15世紀末には対外戦争を行い得る状況にあったと言えるのかもしれないね。

フランス王シャルル8世によるイタリア遠征

アンジュー家の遺産を相続したフランス王ルイ11世が亡くなり、その息子シャルル8世がフランス王位を相続した。このシャルル8世は、相続したナポリを本当に征服しようと西暦1494年からイタリアに遠征を始めたんだ。(余談ながら、そのあおりを受けてフィレンツェの名家メディチ家が追放されたりしている。)

いくつもの小国に分裂していたイタリア諸国を圧倒したフランス王シャルル8世の軍は順調にイタリアを南下し、ローマを通過して、西暦1495年にはナポリを征服。シャルル8世の野望はかなえられた ・・・ と思ったところが、彼のイタリアでの影響力の増大に反発したイタリア諸国が団結してフランスに対抗し、フランス王シャルル8世はナポリ王国を維持することができなくなってしまったんだ。

フランス王ルイ12世の登場

イタリアに野望を抱きつつも挫折したフランス王シャルル8世がイタリアに派遣した軍の先発隊の指揮官は、シャルル8世の親戚にあたるオルレアン公ルイだった。(オルレアン公ルイの祖父は百年戦争時代にブルゴーニュ公ジャン無畏公に暗殺されたオルレアン公ルイだったりする。)

フランスのロワール川のほとりに立つブロワ城で見たルイ12世の騎馬像

西暦1498年にフランス王シャルル8世が亡くなった時、王位を継承したのはそのオルレアン公ルイ(即位してフランス王ルイ12世)だった。上の画像はフランス王ルイ12世の騎馬像なんだけど、フランスのロワール川にあるブロワ城にあるんだ。(ブロワ城はルイ12世の祖父の暗殺されたオルレアン公ルイが所有していた。)

イタリアの野望はナポリもミラノも

フランス王ルイ12世は、シャルル8世と同じく、イタリアへの野心を抱いていた。それもアンジュー家から継承したナポリ王国への権利だけじゃなくて、イタリア北部にあるミラノ公国への権利も主張していたんだ。

イタリア北部ミラノのドゥオモ(大聖堂)

というのも、彼の祖母はかつてのミラノ公国の支配者ヴィスコンティ家の出身者であり、そのミラノ公国は傭兵上がりのスフォルツァ家によって奪われていたからね。(上の画像は、イタリア北部の街ミラノのドゥオモ。)

フランス王ルイ12世によるミラノ・ナポリ占領

フランス王に即位したルイ12世は、まず外交的な手を打った。つまり、当時のローマ教皇アレクサンデル6世とその子チェーザレ・ボルジアのみならず、イタリアの水の都にして地中海の覇者ヴェネツィアとも手を結んだわけだ。

その上でフランス王ルイ12世の軍は、西暦1499年にアルプスを越えてイタリアへなだれ込んだ。ミラノ公爵ロドヴィコ・スフォルツァは敗れてスイスに逃れた。翌年には一時ミラノ公爵ロドヴィコ・スフォルツァがミラノを奪還したけれども、フランス軍はミラノ軍を撃ち破ってミラノ公爵を捕虜にしている。

更に、スペインとも提携したフランス王ルイ12世は、イタリア南部のナポリまでも占領し、西暦1501年にはナポリ王フェデリーコからナポリ王位を譲られたんだ。ところがフランスはスペインと仲たがいをしてしまった。その結果、西暦1503年にはナポリをスペインに奪われてしまった。

神聖同盟とフランス王ルイ12世の挫折とミラノ放棄

一度は手にしたナポリを失ったフランス王ルイ12世は、西暦1509年に再びイタリアに遠征している。でも、神聖同盟を結成したローマ教皇ユリウス2世によって軍の行く手を阻まれてしまう。

フランス王ルイ12世の甥で名将と称されるガストン・ド・フォアの指揮によりイタリアで戦い続けたフランス軍。しかし、西暦1512年4月、22歳の指揮官ガストン・ド・フォアがイタリアの古都ラヴェンナの戦いで戦死してしまう。

その翌年の西暦1513年、フランスと関係諸国との間に休戦条約が結ばれ、フランス王ルイ12世はイタリアのミラノを放棄せざるを得なくなったんだ。その2年後、フランス王ルイ12世が亡くなった。その後もフランス王はイタリアへの野望を抱き続けるんだけどね。

ロワール川のほとりのブロワ城(フランス)

結局は虚しくイタリア戦争を戦い続けたフランス王ルイ12世。でも、彼が残したものが今でもフランスを代表する観光名所の一つとなっているんだ。それがフランス北西部を流れるロワール川のほとりに立つブロワ城(下の画像)。この城をゴシック様式に改築したのがルイ12世なんだそうな。

フランス北西部ロワール川のほとりに立つブロワ城

先にも書いたけど、このページに載せたルイ12世の騎馬像も、このブロワ城の城門に据えられているもの。フランスの首都パリから出発する現地ツアーの中には、ロワール川の古城めぐりなどもある。そんなツアーに参加すれば、このブロワ城のみならず、シャンボール城シュノンソー城なども見ることが出来るんじゃないかな。

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