ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1585年、イタリアのローマで日本の天正遣欧少年使節が教皇グレゴリウス13世に拝謁した。


天正遣欧少年使節がポルトガルに到着

日本の天正遣欧少年使節の一行がポルトガル首都リスボンに到着したのは、西暦1584年8月のことだった。日本の長崎を出発したのが西暦1582年2月のこと。それからヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路発見を受けてポルトガルが拠点としていたゴアを経由して、ようやくヨーロッパに到着したわけだ。

ポルトガルのシントラの王宮

当時のポルトガルはハプスブルク家のスペイン王フェリペ2世皇帝カール5世の息子)の支配下にあった。というわけで、天正遣欧少年使節はシントラの王宮(上の画像)でフェリペ2世がポルトガルの統治を委ねていた総督に拝謁したらしい。

スペインの首都マドリッドでフェリペ2世に拝謁した少年使節

続いて天正遣欧少年使節の一行は隣国スペインに入った。その首都マドリッドではスペイン王フェリペ2世本人の歓迎を受けたんだそうな。(下の画像は今のマドリッドの王宮。現スペイン国王フアン・カルロス1世の公式の宮殿となっている。)

スペインの首都マドリッドの王宮

彼らの旅はまだまだ続く。スペインの港町ヴァレンシアから船に乗り、マヨルカ島を経て、地中海を渡り、いよいよイタリアのピサに上陸し、フィレンツェに赴いたんだ。

イタリアのローマで教皇グレゴリウス13世に拝謁

日本を出て3年余りが経った西暦1585年3月、とうとうイタリアのローマに達した天正遣欧少年使節は教皇グレゴリウス13世に拝謁し、織田信長から託された金屏風を献上している。実は少年使節が日本を出発して4ヵ月後に本能寺の変によって信長は落命していたんだけど、それを少年たちが知る由もなかった。

イタリアの首都ローマの高台から眺めたヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂

上の画像はイタリアの首都ローマの高台から眺めたヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂なんだ。但し、大聖堂の上のドームは、グレゴリウス13世の次の教皇シクストゥス5世によって築かれたもの。天正遣欧少年使節が拝謁して間もなくグレゴリウス13世は亡くなったんだけど、教皇シクストゥス5世の即位の式典には少年使節も列席したんだそうな。

その後の天正遣欧少年使節の一行は、イタリア各地を訪れている。ボローニャヴェネツィアミラノなどなど。ヴェネツィアでは画家のティントレットが使節の一人である伊東マンショの肖像画を描いたらしい。その肖像画が現存していないのが残念なんだけどね。

やがて天正遣欧少年使節はジェノヴァから船に乗り、スペイン北東部のバルセロナに到着した。そこからイベリア半島を横断し、ポルトガルの首都リスボンに帰り着いた。そこで彼らは印刷機を買い、印刷技術も学んだらしい。そのリスボンから船出したのが西暦1586年4月のこと。

インドのゴアに到着したのは翌年の春だった。そのゴアで船を待つ間、彼らは買って来た印刷機を使い、ラテン語で書かれた報告書を印刷したんだそうな。そのラテン語の報告書2部がローマに現存しているらしいよ。

日本に帰国した天正遣欧少年使節

彼らをヨーロッパに送り出したヴァリニャーノは、ローマ教皇やフェリペ2世に日本でのキリスト教の布教活動の意義を認識させ、少年たちにはヨーロッパのキリスト教文明の輝きを日本で語らせることを期待していたらしい。他方で少年たちを送り出した九州の大名たちは、名声と貿易による利益を期待していたんだろうね。

ところが、8年5ヶ月に及ぶ旅を終え、天正遣欧少年使節が西暦1590年7月に日本に帰国した時、状況は一変していた。彼らを送り出した大村純忠も大友宗麟も既に亡くなっていた。しかも、天下人となっていた豊臣秀吉は、西暦1587年にはバテレン追放を命じていたんだ。

そして西暦1597年2月、天正遣欧少年使節が出発し帰国した長崎において、26人のキリスト教徒が処刑された。その中にはヨーロッパから来ていた司祭たちや日本人のキリスト教徒たちもいたんだ。(ちなみに、やがて彼らは列聖されて日本二十六聖人とよばれるようになった。下の画像は長崎にある日本二十六聖人記念碑。)

長崎にある日本二十六聖人記念碑

やがて徳川家康の天下となっても、天正遣欧使節として派遣された4人の少年たちは過酷な状況に翻弄されたんだ。西暦1612年に病死した伊東マンショはまだ幸運だったのかもしれない。原マルティノは幕府によって西暦1614年にマカオに追放され、西暦1629年に亡くなっている。中浦ジュリアンは西暦1633年に処刑されて殉教している。

残る一人の千々石ミゲルは、早くも西暦1601年にキリスト教の信仰を捨てたらしい。でも、その後の彼は親族からも疎遠となり、失意の底で亡くなったんだそうな。西暦1632年に亡くなったとも言われるものの、それも定かではないみたい。彼が悔いたのは、信仰を捨ててしまったことか、あるいは天正遣欧少年使節の一人としてローマまで旅をしたことだったのか。

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