ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1600年、フランス王アンリ4世がマリー・ド・メディシス(メディチ)と再婚した。


フランス王アンリ4世とマリー・ド・メディシス(メディチ)の結婚

フランス王アンリ4世といえば、パリノートルダム大聖堂で挙行されたヴァロワ王家の王女マルグリット(マルゴー)との結婚式の数日後に起こったサン・バルテルミーの虐殺などのフランス宗教戦争を生き延び、ジャン・カルヴァンの教えに従うプロテスタント(ユグノー)でありながらブルボン家初代のフランス王として即位し、カトリックに改宗してパリに入城し、ナントの勅令などによってフランスの宗教戦争を終息させた人物だね。

そのフランス王アンリ4世と王女マルグリットの結婚が無効であったことが西暦1599年にローマ教皇によって宣言された。そして翌年10月にはアンリ4世はフィレンツェの名家メディチ家の令嬢マリー・ド・メディシス(メディチ)と再婚(先の結婚が無効ならば初婚とすべきか)したんだ。彼女はアンリ4世を支援してきたメディチ家の第3代トスカナ大公フェルディナンド1世の姪(兄の娘)だった。

その結婚式は奥方の実家のあるイタリアのフィレンツェで挙行された。但し、御多忙の新郎は参加できず、代理人を出席させたらしい。(それでも結婚式といえるんだろうか ・・・ 。)

フランス南部プロヴァンス地方の港町マルセイユの風景

そして挙式から1ヵ月後の西暦1600年11月、新婦マリー・ド・メディシス(メディチ)はフランス南部プロヴァンス地方にあるマルセイユの港(上の画像)に到着した。もちろん、御多忙の新郎はわざわざマルセイユまで新婦を迎えに ・・・ 来るはずも無いね。

ちなみに、新婦マリー・ド・メディシス(メディチ)の親戚でフランス王アンリ2世の王妃となったカトリーヌ・ド・メディシス(メディチ)も、このマルセイユの港から上陸している。彼女の場合は、このマルセイユで結婚式が挙行されたんだけどね。

フランス王アンリ4世とマリー・ド・メディシス(メディチ)の御対面

マルセイユに上陸した新婦マリー・ド・メディシス(メディチ)が新郎のフランス王アンリ4世と初めて会ったのが、地中海からローヌ川を遡ったところにあるリヨンの街だった。(下の画像はリヨンにあるサン・ジャン大聖堂。)

フランス第2の都市リヨンにあるサン・ジャン大聖堂

フランス王アンリ4世がわざわざリヨンまで新婦を迎えに来た ・・・ わけじゃないと思う。というのも、アンリ4世はサヴォワ公と戦争中だった。だから、たまたまリヨンにいたんじゃないかな。ちなみに、明けて西暦1601年にはアンリ4世はサヴォワ公からペルージュの街を獲得している。

王妃マリー・ド・メディシスの戴冠とアンリ4世暗殺

そんなわけで全くドラマティックなところのない新婚さんなんだけど、翌年には王子(後のフランス王ルイ13世)が生まれ、その後も王子・王女が生まれている。歴史の本などでは夫婦仲はさほど良くなさそうに書いてあるけど、実際のところはどうなんだろうね。夫婦仲なんて本人たちしかわからない(本人たちだってわからないかも)ってこともあるのか。

そんなこんなで結婚して10年、西暦1610年には王妃マリー・ド・メディシス(メディチ)の戴冠式がパリ郊外にあるサン・ドニ大聖堂で行われた。(下の画像は、そのサン・ドニ大聖堂のバラ窓のステンド・グラス。)

フランスの首都パリの郊外にあるサン・ドニ大聖堂のバラ窓のステンド・グラス

フランス王アンリ4世が暗殺されたのは、その王妃の戴冠式の翌日のことだった。二人の長男が9歳にしてフランス王ルイ13世となり、王母マリー・ド・メディシス(メディチ)が摂政となった。

息子であるフランス王に幽閉された王母マリー・ド・メディシス

王母マリー・ド・メディシス(メディチ)の摂政としての政策についての評価は低い。夫であるフランス王アンリ4世がようやくフランス国内の宗教戦争を終息させたにもかかわらずカトリックを重視していた。長くフランスと対立していたハプスブルク家やスペインに近づいていった。

やがて息子であるフランス王ルイ13世が成長すると、政治への関与をやめない王母マリー・ド・メディシス(メディチ)との関係が難しくなっていった。そして西暦1617年、フランス王ルイ13世は王母マリー・ド・メディシス(メディチ)をロワール川のほとりのブロワ城(下の画像)に幽閉したんだ。

フランスのロワール川のほとりにあるブロワ城

ところが、王母マリー・ド・メディシス(メディチ)は幽閉されて大人しくはしていない。西暦1619年にはブロワ城を脱出し、ルイ13世の弟を引っ張り出して反乱を起こした。でも、すぐに反乱は鎮圧されてしまったんだけどね。

その後、一時期は息子であるフランス王ルイ13世と和解したものの結局は対立に陥った。挙句に王母マリー・ド・メディシス(メディチ)はフランスから追放され、ベルギーオランダに滞在した後、西暦1642年にドイツのケルンで亡くなったんだ。なんとも激しい王妃・王母だったこと。

ところで、余談が二つ。まずは、こんな王妃・王母マリー・ド・メディシス(メディチ)の前半生を画家ルーベンスが描いた絵をパリのルーブル美術館で見ることができるんだ。但し、フランス追放後のことは描かれていない。(ちなみに、ルーベンスは故郷ベルギーの街アントワープノートルダム大聖堂で「キリストの復活」を完成させた後にパリに赴いている。)

もう一つはマリー・ド・メディシスの孫たちのこと。その一人は長男のフランス王ルイ13世の息子でヴェルサイユ宮殿を造営したルイ14世太陽王だね。他方で、マリー・ド・メディシスの娘のヘンリエッタ・マリアが嫁いだイギリス王チャールズ1世との間に生まれたのが、チャールズ2世ジェームズ2世だった。フランス王ルイ14世と二人のイギリス王という従兄弟たちは、17世紀ヨーロッパの戦争や革命に関連して、色々とからんでいくことになる。

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