イギリス生まれのウィリアム・アダムス、後の三浦按針ウィリアム・アダムス(右の画像は長崎県平戸市に立つ彼の像)は西暦1564年にイギリス南部のケント州で生まれた。父親は船乗りだった。幼くして父親を亡くした彼は、十代前半でイギリスの首都ロンドンのテムズ川のほとりで船大工の弟子となっている。この船大工の弟子となって働いた経験は、後に大きな意味を持つことになる。彼は船大工の仕事に満足してはいなかったみたいだけど。 成長した彼は二十代半ばで船大工の下を去り、海軍の船乗りになった。海賊として名高いフランシス・ドレークの指揮下でイギリス艦隊がスペインの無敵艦隊を撃破したアルマダの海戦にも参加したらしい。 やがて彼は海軍から貿易会社に移っている。商船の乗組員となった彼は、海軍勤務時代に結婚した奥さんや二人の子供たちと一緒に過ごすことはほとんど無かった。アメリカ大陸やアフリカへの航海を重ね、海の上にいることが多かったみたい。 でも、歴史に名を残す彼の冒険が始まるのは、ここからなんだ。その冒険に出なければ、右の画像に見るような彼の像が日本に立てられることもなかっただろうね。
旗本 三浦按針となったウィリアム・アダムスロンドンの貿易会社の商船の乗組員となっていたウィリアム・アダムスは、船乗り仲間から興味深い話を聞いた。オランダが極東へ向かう船団の乗組員を募集しているという話だった。その話に関心を抱いた彼は、その募集に応じたらしい。ロンドンの貿易会社の船で大西洋を北へ南へと航海をしていた経験豊富な彼はめでたく採用され、西暦1598年にオランダを出航する船の乗組員となったわけだ。(下の画像は航海の途中から彼が航海士として乗り組んだリーフデ号の模型。平戸に復元されたオランダ商館で展示されている。)
ところが航海は順風満帆とはいかなかった。ウィリアム・アダムスが参加した船団は、5隻の船でオランダを出発した。しかし、極東にたどり着くことができたのは、彼が乗り込んだリーフデ号だけだった。他の船は他国によって拿捕され、あるいは船団からはぐれ、あるいは沈没してしまったんだ。
平戸におけるイギリス商館の開設イギリス生まれの旗本 三浦按針が日本の支配者である徳川家康に信頼されて外交などにおいて助言者となっていることを知ったイギリスは、艦隊を日本むけて出航させた。西暦1613年、イギリス艦隊が平戸に到着。艦隊司令官は三浦按針ことウィリアム・アダムスの助力により、徳川家康に国王の親書を手渡し、更には徳川秀忠にも拝謁。その結果、イギリスは日本との通商を行うことが許されたんだ。
かくして日本との通商を許されたイギリスは、平戸に商館を開設。商館長をはじめとするイギリス人商館員を駐在させ、日本人のスタッフも雇用し、貿易に取り組んだわけだ。(上の画像は平戸におけるイギリス商館跡地。今は日本の銀行の支店になっているけどね。)
イギリス生まれの旗本 三浦按針の死ところが西暦1616年には徳川家康が亡くなってしまった。イギリスではシェイクスピアが亡くなった年だね。第2代将軍となった徳川秀忠の下で日本は鎖国政策を進め、三浦按針の活躍の場は失われていった。そして西暦1620年、イギリス生まれの旗本 三浦按針ことウィリアム・アダムスが平戸で亡くなった。(下の画像は平戸の崎方公園にある三浦按針墓。)
平戸に開設されたイギリス商館が閉鎖され、イギリス人駐在員たちが日本を去っていったのは、按針の死から3年後の西暦1623年のことだった。日本の鎖国政策によって貿易活動に対する制約が強まったことや、極東貿易において先行していたオランダとの競争が不利な状況にあったことなどが背景にあったらしい。
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