スペインからのモリスコ(カトリックに改宗したイスラム教徒)追放スペインの代表的な物語といえばセルヴァンテスの小説「ドン・キホーテ」かな。このドン・キホーテの相棒といえば、サンチョ・パンサだよね。そのサンチョ・パンサの仲良しといえば、隣に住んでいたリコーテだった。このリコーテさん、元々はイスラム教徒だったらしい。続いて、スペインに黄金時代をもたらした立役者といえば、新大陸アメリカを発見したコロンブスだよね。そのコロンブスの部下だったロドリゴ・デ・ロペなる人物も隠れイスラム教徒だった。
そして、私たちに最も馴染み深いスペイン料理といえば、パエリャだよね。(上の画像はスペイン南部アンダルシア地方の古都グラナダで食べたシーフードたっぷりのパエリャ。)
古都グラナダの陥落とスペインのイスラム教徒たち西暦711年にイベリア半島に上陸して西ゴート王国を滅ぼしたイスラム教徒たちは、西暦756年に古都コルドバを中心に後ウマイヤ朝を樹立し、今のスペインやポルトガルに中世イスラム文化の花を咲かせた。そんな後ウマイヤ朝も西暦1031年には滅び、やがて西暦1085年にはカスティーリャ王アルフォンソ6世によって古都トレドを奪還され、西暦1236年には古都コルドバもカスティーリャ王フェルナンド3世によって奪われ、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)によってスペインのイスラム教徒は次第に劣勢に陥っていった。
スペインに最後に残ったイスラム教徒勢力のナスル朝も、西暦1492年に古都グラナダを征服されて滅亡したわけだ。(上の画像は古都グラナダのアルハンブラ宮殿から眺めたアルバイシン地区の古い街並み。)
スペインのイスラム教徒に対するカトリックへの改宗の強制古都グラナダ陥落の後しばらくは、降伏条件を尊重し、イスラム教徒に対する改宗への圧力はさほど強いものではなかった。ところが、スペインのカトリックの総本山たるトレド大聖堂の大司教シスネロスの影響により、次第にイスラム教徒に対するカトリックへの改宗への圧力が強まっていった。そして古都グラナダを攻め落としたカトリック両王の孫にあたるハプスブルク家のスペイン王カルロス1世(皇帝カール5世)は、スペインの全ての臣民はカトリックたるべしという勅令を発した。西暦1525年のことだった。その結果、イスラム教徒の子供たちはカトリックの洗礼を強制され、モスクはカトリックの教会に変えられたわけだ。
上の画像は後ウマイヤ朝の古都コルドバのメスキータ(かつての大モスク)の中にある大聖堂の祭壇。この大聖堂はスペイン王カルロス1世の時代に建てられたんだそうな。
モリスコ(カトリックに改宗したイスラム教徒)のスペイン追放強制の結果、スペインのイスラム教徒たちは洗礼を受け、カトリックに改宗した ・・・ ことになった。こうして多くのモリスコが生まれたわけだ。当時のスペインの人口 800万人ほどに対して、モリスコは 30万人ほどだったと言われている。(50万人とか100万人という説もあるけど。)でも、彼らモリスコは本当にカトリックを信じるようになったのか。カトリックに改宗する前のイスラム教徒の頃の慣習を保ち、アラビア語で会話をし、モリスコ同士の集団で暮らす人々。江戸時代の日本の隠れキリシタンのように、スペインのモリスコは隠れイスラム教徒だったのではないか。 西暦1529年にはオーストリアの首都ウィーンの包囲、西暦1565年のマルタ島への侵攻などもあった。スペイン国内のモリスコたちは、オスマン・トルコなどの侵攻を手引きするのではないか。(下の画像はマルタ島にあるかつての聖ヨハネ騎士団の聖アンジェロ城砦の眺め。)
そんな懸念を払拭するために、スペイン王フェリペ2世(カルロス1世の息子)は異端審問などを強化し、隠れイスラム教徒の摘発とカトリックの強制を徹底しようとした。その結果、西暦1568年に起きたのが、モリスコたちによるアルプハラスの反乱だった。
他方で、15世紀末からスペインで迫害されていたイスラム教徒・モリスコ・ユダヤ人たちを受け入れた国もあった。その代表がイタリアの古都フィレンツェを支配していたメディチ家の第3代トスカナ大公フェルディナンド1世だった。その結果、彼の公国の経済は一時的に繁栄を取り戻している。
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