ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1609年、オランダの東インド会社が日本の平戸に商館を開設した。


平戸におけるオランダ商館の開設

長崎県平戸市に立つ初代オランダ商館長ジャックス・スペックスの像 西暦1609年7月、2隻のオランダの船が日本の平戸(長崎県)に到着した。その2隻は、西暦1602年に設立されたオランダ東インド会社のアジア艦隊の船だった。

船にはオランダ総督の親書を携えた使者が駿府に向かい、徳川家康に拝謁して貿易の許可を求めた。その要請に対し、徳川家康は同年8月に朱印状を与え、貿易を行うことを認めている。

かくして日本の支配者の許しを得たオランダ東インド会社は、直ちに平戸に商館を設置したわけだ。但し、設立当初のオランダ商館は平戸で借りた1軒の家に過ぎず、常駐の商館員も6人だけだったそうな。

そんな平戸オランダ商館の初代商館長となったのが、ジャックス・スペックス(平戸市内に立つ彼の像が右の画像)だった。ちなみに彼は西暦1614年に第3代商館長ともなっている。

ついでながら、西暦1600年に日本に漂着し、旗本として徳川家康に仕えたウィリアム・アダムス(三浦按針)も平戸のオランダ商館に貿易業務に関与していたらしい。

日本で生まれたオランダ商館員の子供たち

平戸に駐在していたオランダ東インド会社の商館員たちの中には、日本の女性と結婚して子供を得た人たちもいた。その一人が西暦1623年に着任した第5代商館長ナイエンローデだった。彼は日本人女性との間に生まれた娘にコルネリアと名づけている。しかし、彼は西暦1633年に平戸で亡くなり、その遺志に従って混血児コルネリアはバタヴィアで育てられたそうな。

長崎県平戸市の瑞雲寺に残るコルネリアの塔

バタヴィアで成長し、そこで東インド会社の社員と結婚したコルネリアは、父親の50回忌の為に、母親の再婚先に依頼して供養塔を建立している。平戸の瑞雲寺に残るその供養塔(コルネリアの塔と呼ばれている)が上の画像なんだ。

ところで、父親を亡くしたコルネリアが日本を去った後のことなんだけど、西暦1639年には日本の鎖国政策が強化され、オランダ商館員などとの混血児とその母親は日本から追放されることとなった。バタヴィアなどに送られた混血児や母親が日本に送った手紙など(じゃがたら文と呼ばれる)などが今も残っている。

オランダ商館に刻まれた西暦が ・・・

当初は1軒の借家からスタートした東インド会社の平戸商館なんだけど、やがて民家数十戸分の敷地にいくつもの建物で構成される規模となっていった。西暦1639年には日本で初めてとなる洋風建築の倉庫も建てられている。西暦2011年に平戸に復元されたその倉庫が下の画像なんだけど、今では平戸オランダ商館として人気の観光スポットになっているね。

長崎県平戸市に復元されたオランダ商館

ところが、西暦1640年に徳川幕府が平戸のオランダ商館にとんでもない言いがかりをつけてきた。商館の建物に西暦の年号が刻まれていることがけしからんと。つまりは、イエス・キリストの誕生を紀元とする西暦は、幕府によるキリスト教禁止に反しているというわけだ。

長崎の出島に移転したオランダ商館

結局、西暦の年号を理由に平戸のオランダ商館の取り壊しを幕府が命じ、西暦1641年に東インド会社の商館は長崎の出島に移って行ったんだ。(下の画像は長崎の出島跡に復元されたオランダ商館の商館長の宿舎。)

長崎県長崎市の出島跡に復元されたカピタンの宿舎

ちなみに、西暦1639年までは長崎の出島はポルトガルの貿易の拠点となっていた。しかし、西暦1637年には島原の乱が起きたことなどから、キリスト教の布教を行うカトリック国のポルトガルとの貿易は、幕府にとって好ましいものではなくなってしまった。かくしてポルトガル人は追い出され、入れ替わりに非カトリックのオランダ人が出島に入れられたというわけだ。

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