ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1536年、フランス南部プロヴァンスのマルセイユがフランスとオスマン・トルコ艦隊の基地となった。


フランス南部プロヴァンス地方の港町マルセイユ

フランス南部のプロヴァンス地方にあるマルセイユといえば、そもそもは古代ギリシャ人の交易の拠点から続く長い歴史を持つ港町だよね。何度もペスト(黒死病)が上陸して人口が激減したとか、色々と大変なこともあったみたいだけどね。

フランス南部プロヴァンス地方のマルセイユの港

上の画像は今のマルセイユの港の風景なんだけど、夏ともなれば多くの観光客が歩いているんだ。ちなみに、この港の近くには、マルセイユ名物のブイヤベースを食べさせるレストランなどもあるよ。

マルセイユの丘の上のノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院

そして下の画像の左側に見えている丘の上には、ノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院が港を見下ろしている。

フランス南部プロヴァンス地方のマルセイユの港と丘の上のノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院

輝く海には数え切れないほどたくさんのヨットも並んでいるし、とっても平和な風景 ・・・ に見えるよね。でも、実はこの港や丘には戦いの歴史も刻み込まれている。

例えば、西暦1423年にはこのマルセイユはアラゴン艦隊に襲われている。そして西暦1437年には当時の領主だったプロヴァンス伯ルネ・ダンジューがマルセイユの守りを強化している。(ついでながら、当時のマルセイユを含むプロヴァンス伯領は神聖ローマ帝国の領域内だった。ルネ・ダンジューが亡くなり、プロヴァンス伯領をフランス王が継承して後に、ここはフランスの一部となったんだ。)

そして西暦1572年にはサン・バルテルミーの虐殺を契機にフランスの宗教戦争が激化しているけれども、マルセイユの丘の上のノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院の場所にあった城砦の争奪戦もあったらしいよ。(ついでながら、その宗教戦争の主役の一人だった王妃カトリーヌ・ド・メディチの結婚式もこのマルセイユで挙行された。)

マルセイユとフランス王フランソワ1世

そんなマルセイユにフランス王フランソワ1世がやって来たのは西暦1516年のことだった。ハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝カール5世と何度も戦ってきたフランソワ1世は、このマルセイユの守りを強化した。

今のノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院のある丘に城砦を築き、他方でマルセイユの港から 2kmほど沖にあるディフ島(イフ島)にも要塞を築いた。(下の画像の青い矢の先がそのディフ島要塞。)

フランス南部プロヴァンス地方のマルセイユの丘の上のノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院から眺めたディフ島要塞

余談だけど、アレクサンドル・デュマの小説の主人公モンテ・クリスト伯が囚われていたのは、そのディフ島の要塞だった。

マルセイユを基地としたオスマン・トルコ艦隊

守りを強化したマルセイユを、フランス王フランソワ1世はフランスとオスマン・トルコの艦隊の基地にしたらしい。フランソワ1世は皇帝カール5世に勝つ為には、イスラム教徒とも手を結んだというわけだ。

そんなマルセイユを西暦1536年にカール5世の神聖ローマ帝国軍が攻囲している。でも、フランソワ1世が守りを強化してこともあり、マルセイユを陥落させることもできないままに神聖ローマ帝国軍は兵を引いたんだ。

イタリア南部アマルフィを襲ったオスマン・トルコ艦隊の絵

他方で、オスマン・トルコ艦隊はニース(当時は神聖ローマ帝国の領域内だった)やイタリア南部のアマルフィを襲ったりしている。オスマン・トルコ艦隊のアマルフィ襲撃はさほどうまくいかなかったみたいだけど。(上の画像はアマルフィ大聖堂にあるオスマン・トルコ艦隊襲撃を描いた絵の一部。)

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