フランス南部プロヴァンス地方の港町マルセイユフランス南部のプロヴァンス地方にあるマルセイユといえば、そもそもは古代ギリシャ人の交易の拠点から続く長い歴史を持つ港町だよね。何度もペスト(黒死病)が上陸して人口が激減したとか、色々と大変なこともあったみたいだけどね。
上の画像は今のマルセイユの港の風景なんだけど、夏ともなれば多くの観光客が歩いているんだ。ちなみに、この港の近くには、マルセイユ名物のブイヤベースを食べさせるレストランなどもあるよ。
マルセイユの丘の上のノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院そして下の画像の左側に見えている丘の上には、ノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院が港を見下ろしている。
輝く海には数え切れないほどたくさんのヨットも並んでいるし、とっても平和な風景 ・・・ に見えるよね。でも、実はこの港や丘には戦いの歴史も刻み込まれている。
マルセイユとフランス王フランソワ1世そんなマルセイユにフランス王フランソワ1世がやって来たのは西暦1516年のことだった。ハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝カール5世と何度も戦ってきたフランソワ1世は、このマルセイユの守りを強化した。今のノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院のある丘に城砦を築き、他方でマルセイユの港から 2kmほど沖にあるディフ島(イフ島)にも要塞を築いた。(下の画像の青い矢の先がそのディフ島要塞。)
余談だけど、アレクサンドル・デュマの小説の主人公モンテ・クリスト伯が囚われていたのは、そのディフ島の要塞だった。
マルセイユを基地としたオスマン・トルコ艦隊守りを強化したマルセイユを、フランス王フランソワ1世はフランスとオスマン・トルコの艦隊の基地にしたらしい。フランソワ1世は皇帝カール5世に勝つ為には、イスラム教徒とも手を結んだというわけだ。そんなマルセイユを西暦1536年にカール5世の神聖ローマ帝国軍が攻囲している。でも、フランソワ1世が守りを強化してこともあり、マルセイユを陥落させることもできないままに神聖ローマ帝国軍は兵を引いたんだ。
他方で、オスマン・トルコ艦隊はニース(当時は神聖ローマ帝国の領域内だった)やイタリア南部のアマルフィを襲ったりしている。オスマン・トルコ艦隊のアマルフィ襲撃はさほどうまくいかなかったみたいだけど。(上の画像はアマルフィ大聖堂にあるオスマン・トルコ艦隊襲撃を描いた絵の一部。)
All rights reserved 管理・運営 あちこち三昧株式会社 このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。 |