フランスの絶対君主 太陽王ルイ14世死去西暦1715年、フランス王ルイ14世(太陽王)が亡くなった。西暦1643年に4歳でフランス王となり、72年間に渡って絶対君主として君臨した太陽王。その遺骸は、フランスの首都パリの郊外にあるサン・ドニ大聖堂(下の画像はそのバラ窓のステンド・グラス)に葬られている。
ちなみに、このサン・ドニ大聖堂にはフランス王家の墓所もあり、ルイ14世の祖父でブルボン家の初代フランス王アンリ4世の墓などもあるんだ。
戦争ばかりの太陽王ルイ14世太陽王とも称されたルイ14世だけど、フランス王としての即位直後には危ない目にもあっている。即位から5年後の西暦1648年にはフロンドの乱が起こり、首都パリから逃げ出すこともあったんだそうな。(下の画像はエッフェル塔の上のレストラン「ジュール・ヴェルヌ」から眺めたパリ。遠くにモンマルトルの丘のサクレ・クール寺院も見えている。)
そして、西暦1661年に親政を始めてからは、対外戦争の連続だった。西暦1663年にはスイス盟約者団と傭兵契約を結んで兵力を確保し、西暦1667年からはフランドル戦争、西暦1672年からはオランダ戦争、西暦1681年にはストラスブールを中心とするアルザス地方を攻略し、西暦1688年からはアウクスブルク同盟戦争、西暦1701年からはスペイン継承戦争 ・・・ 。
それだけ戦争ばかりしていた太陽王ルイ14世も兵士たちに申し訳ないと思ったんだかどうだか、パリにアンヴァリッド 廃兵院を創設している。つまりは傷病兵や年老いた兵を収容するための施設みたい。もっとも、その中には後にフランス皇帝ナポレオンのお墓が作られたんだけど、それはルイ14世の想定外だったろうね。
戦争ばかりと書いたけれども、フランス王ルイ14世太陽王が残したものと言えば、ヴェルサイユ宮殿も書いておかなきゃね。ついでに、そのヴェルサイユ宮殿に宮廷を移す前に住んでいたパリのテュイルリー宮殿の庭園もルイ14世が作らせたものだった。
イングランド王チャールズ2世とジェームズ2世ところで、太陽王ルイ14世の祖父のフランス王アンリ4世の王女は、イングランド王チャールズ1世に嫁いでいた。その結婚から生まれたのが後のイングランド王チャールズ2世とジェームズ2世だった。つまり、その二人のイングランド王は太陽王ルイ14世の従兄ということになる。太陽王ルイ14世は二人の従兄たちとあれやこれやと関係しているんだ。イングランドの清教徒革命の後の王政復古によってイングランド王となったチャールズ2世とは、イングランド南部のドーバーで交わしたドーバーの密約を結び、連携してオランダと戦っている。
続いて、カトリックのイングランド王ジェームズ2世には、名誉革命の際にも支援を申し出ているんだ。しかし、結局はジェームズ2世は国璽(国家のハンコ)をロンドンを流れるテムズ川(上の画像)に放り込んでフランスに逃れてきたんだけどね。
サン・ドニ大聖堂に葬られた太陽王ルイ14世西暦1715年、あと数日で77歳になろうという太陽王ルイ14世が亡くなった。ルイ14世の遺骸は、フランス王家の墓所のあるパリ郊外のサン・ドニ大聖堂に葬られた。(下の画像はサン・ドニ大聖堂にある太陽王ルイ14世のレリーフ。)
フランス王位を継承したのは、曾孫で5歳のルイ15世だった。太陽ルイ14世の子供たちは既に亡くなっていた。その子供(太陽王の孫)も亡くなっていた。その子供(太陽王の曾孫)のうちでも長男と次男は亡くなっており、ルイ15世は三男だったらしい。絶対君主も人間の寿命はどうにもできなかったんだね。
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