古代ローマ帝国の平和を回復した皇帝ウェスパシアヌス歴史上の暴君の代表格とも言える皇帝ネロが西暦68年に自殺した後、古代ローマ帝国の平和は乱れに乱れてしまった。西暦69年には相次いで4人もの皇帝が誕生し、内乱が続いたらしい。そんな混乱を鎮めて古代ローマ帝国の平和を回復したのが、皇帝ウェスパシアヌスだった。西暦69年に4人目の皇帝として即位した彼は、フラウィウス朝の初代皇帝でもあった。
そんな皇帝ウェスパシアヌスを祀る神殿の遺構が、イタリアの首都ローマのフォロ・ロマーノの中心でもあるカピトリーノの丘に残っている。上の画像の左手に見える三本の柱がそれなんだけどね。
フラウィウス朝初代皇帝ウェスパシアヌスウェスパシアヌスは西暦9年に徴税請負人の息子として生まれた。古代ローマの英雄カエサル(シーザー)や初代皇帝アウグストゥスとは縁もゆかりもなく、貴族の家系でもなかった。そんなウェスパシアヌスは古代ローマ帝国の軍人となり、各地に派遣されている。特筆すべきは、西暦43年のブリタニア遠征への参加だった。この遠征によって古代ローマ帝国はブリタニアの中心ロンディニウム(今のイギリスの首都ロンドン)を築くなどの成果を挙げている。
上の画像は今のロンドンの金融街シティの一角に残るロンドン・ウォールの遺構なんだけど、基本的にロンドン・ウォールは中世に築かれたものではあるけれども、その底部には古代ローマ帝国時代のものも残っているんだそうな。(ついでながら、後に息子ティトゥスも軍人としてブリタニアに派遣されたらしい。)
フラウィウス朝第2代皇帝ティトゥスついに皇帝となったウェスパシアヌスが支配を確立しつつあった頃、父の残した軍団の司令官としてユダヤ戦争を続けていた長男ティトゥスは、ついに西暦70年にエルサレムを攻略している。ユダヤ人の抵抗は一部で続いたけれども、実質的にユダヤ戦争は終息し、ティトゥスはローマに凱旋したわけだ。(下の画像はフォロ・ロマーノに残るティトゥスの凱旋門。)
ローマに凱旋したティトゥスは、父である皇帝ウェスパシアヌスの親衛隊の長官や執政官となり、西暦79年に父が亡くなった後にはフラウィウス朝の第2代皇帝となって古代ローマ帝国を統治している。
フラウィウス朝第3代皇帝ドミティアヌス兄である古代ローマ帝国皇帝ティトゥスが病気で倒れると同時に権力を掌握したのが、弟のドミティアヌスだった。間もなくティトゥスが亡くなり、ドミティアヌスは直ちにフラウィウス朝の第3代皇帝として即位している。皇帝ドミティアヌスの功績としては今のローマに残るコロッセオ(円形闘技場)を西暦86年に完成させたことがある。皇帝ウェスパシアヌスが西暦75年にコロッセオの建設を始め、ティトゥス帝の時代に大規模なオープニング・イベントを開催したんだけど、最終的な完成はドミティアヌス帝の代になってからのことだった。 皇帝冨ティアヌスはコロッセオで剣闘士の戦いや戦車競技を見るのが好きだったそうな。とはいえ、従軍経験もないドミティアヌスには軍事的な才能は無かったらしい。父や兄のようにブリタニア(今のイギリス)に遠征したり、ダキア(今のルーマニア)に遠征したものの成果は無かったらしい。
他方、古代ローマ帝国の中枢であるイタリアの産業を守る為、属州の経済活動に制約を課したこともあるみたい。例えば、西暦91年にはガリア(今のフランス)におけるワイン用ブドウ栽培の半減を命じている。(上の画像は古代ローマ帝国時代から続くワイン造りの歴史を持つフランス東部ブルゴーニュ地方のワイン村ジュヴレ・シャンベルタンのブドウ畑の様子。)
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