ヨーロッパの歴史風景 先史・古代編




西暦138年、古代ローマ帝国の皇帝アントニウス・ピウス(あるいはアントニヌス・ピウス)が即位した。(イタリア)


古代ローマ帝国の皇帝アントニウス・ピウス

高校の世界史の授業の中で、古代ローマ帝国に関連して五賢帝という言葉があったよね。受験で世界史を選択した人は、その五賢帝を覚えようと頑張ったわけだ。その五賢帝の一人が、西暦138年に皇帝に即位したアントニウス・ピウス(あるいはアントニヌス・ピウス)だった。

イギリスの首都ロンドンの大英博物館にある古代ローマ帝国皇帝アントニウス・ピウスの胸像

上の画像は、イギリスの首都ロンドン大英博物館の中の古代ローマ関連の展示にある古代ローマ帝国皇帝アントニウス・ピウスの胸像なんだ。

アントニウス・ピウスの誕生から皇帝に即位するまで

西暦86年、古代ローマ帝国の執政官を務めたこともあるティトゥス・アウレリウス・フルラスに息子が生まれた。今のフランス南部プロヴァンス地方の街ニーム(あのポン・デュ・ガール水道橋が水を供給していた街)でのことだった。その子供が後の皇帝アントニウス・ピウスとなるんだ。

古代ローマ帝国の名門の家系に生まれたアントニウス・ピウスは、当時の皇帝ハドリアヌス(五賢帝の一人)に重用されていた。そして西暦138年、皇帝ハドリアヌスの養子が亡くなってしまった。後継者を失った皇帝は、ずっと重用してきたアントニウス・ピウスを養子に迎えて後継者にしたわけだ。アントニウス・ピウスは既に50歳を越えていたんだけどね。

その年の夏、皇帝ハドリアヌスが亡くなった。その先帝をローマの霊廟(今のサンタンジェロ城)に葬ったアントニウス・ピウスが新しい皇帝として即位したわけだ。

古代ローマ帝国皇帝アントニウス・ピウスの治世

五賢帝の中の4人目の皇帝アントニウス・ピウスの統治下で、古代ローマ帝国は比較的に平和な時代を送っていた。ところが、西暦142年にブリタニア(イギリス)北部(今のスコットランド)のピクト人が戦いをしかけてきた。(下の画像は今もスコットランドに残る古代ピクト人の石の砦デューン。)

イギリス北部スコットランドにある古代ピクト人の石の砦

ブリタニア(イギリス)における古代ローマ帝国の領域を守る為に、皇帝アントニウス・ピウスはハドリアヌスの長城(城壁)の北側にもう一つの長城(城壁)を建設させたんだそうな。

西暦145年、皇帝アントニウス・ピウスの娘がマルクス・アウレリウスと結婚した。そのマルクス・アウレリウスは既に皇帝アントニウス・ピウスの養子となっており、その娘との結婚によって皇帝の後継者としての地位を更に固めたわけだ。

そして西暦161年、古代ローマ帝国の皇帝アントニウス・ピウスが亡くなった。後継者マルクス・アウレリウスが皇帝(五賢帝の最後の皇帝)として即位した。古代ローマ帝国は平和を謳歌しており、その金庫には莫大な資金が貯えられていたらしい。

皇帝アントニウス・ピウスと妃ファウスティナの神殿

古代ローマ帝国の元老院は、亡くなった皇帝アントニウス・ピウスに神格を与え、先に亡くなっていた妃ファウスティナと共に神殿に祀ることとした。

イタリアの首都ローマのフォロ・ロマーノにある皇帝アントニウスと妃ファウスティナの神殿

上の画像がローマのフォロ・ロマーノに今も残る皇帝アントニウス・ピウスと妃ファウスティナの神殿なんだ。後にキリスト教の教会にされたから、神殿にしては妙な建物になっているんだけどね。

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