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西暦122年、ブリテン島(イギリス)で、古代ローマ帝国によるハドリアヌスの長城(城壁)の建設が始まった。
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砦を守る古代ローマ帝国の兵士たち (ブリテン島、イギリス)
イギリス北部のスコットランドとイングランドの国境付近には、今でもいくつもの砦の跡が残っているんだ。その一つが下の画像に写っている。
この砦を拠点にケルト系の人々あるいはピクト人の侵入に備えていたのは、古代ローマ帝国の兵士たちだった。そして、彼らが守っていた拠点の有力なものがハドリアヌスの長城(城壁)だった。
ハドリアヌスの長城(城壁)と古代ローマ帝国
古代ローマの英雄シーザーによるブリテン島(イギリス)遠征以後、ケルト系ブルトン人の抵抗を抑えつけて、古代ローマ帝国はブリテン島南部(現在のイングランド)に支配を広げてきた。
しかし、ブリテン島北部ではピクト人の抵抗が続き、やがて古代ローマ帝国はブリテン島北部の制圧をあきらめることとなった。そして、北部の蛮族の侵攻から古代ローマ帝国の支配下にあるブリテン島南部を守るために築いたのが、ハドリアヌスの長城(城壁)というわけなんだ。
古代ローマ帝国の皇帝ハドリアヌスがブリテン島を訪れた際にヨーク(当時の都市名はエボラクム)を経て北方へ向かい、そこで命令を下し、ハドリアヌスの長城(城壁)(下の画像)の建設が始まったのが、西暦122年のこと。完成したのは、着工から10年後のことだった。
ハドリアヌスの長城(城壁)は、現在のスコットランドとイングランドの国境近くに築かれ、ブリテン島の西岸から東岸まで、約 73マイル(約 117km)の総延長を持っていた。その高さは 6m以上、しかも蛮族の住む北側には堀も設けられていた。
古代ローマ帝国の衰退とブリテン島防衛の放棄
でも、ハドリアヌスの長城(城壁)が完成しても、北方のピクト人と古代ローマ帝国の兵士たちとの戦いは終わらなかった。
3世紀の初頭には皇帝セプティミウス・セウェルスが自ら古代ローマ帝国の軍団を率いてブリタニア(イギリス)に遠征し、ピクト人と戦っている。その皇帝セプティミウス・セウェルスはエボラクム(ヨーク)で亡くなり、カラカラ帝が継承したんだけどね。
それでも北方のピクト人の抵抗は続いた。それも抵抗にとどまらず、西暦367年にはハドリアヌスの長城(城壁)を越え、古代ローマ帝国の支配していた領域深くピクト人が侵入している。その際にはアイルランドのゲール人(ダブリンから車で1時間半ほどのところにあるタラの丘で即位する上王に従っていたとされる)やサクソン人なども同時に侵入したらしい。
西暦5世紀初頭には古代ローマ帝国はブリテン島(現イギリス)を放棄し、駐屯していた兵士たちも撤退してしまった。古代ローマ帝国の本拠であるイタリアどころか、その中心であるローマさえも蛮族の攻勢の前に危機に瀕していたからね。遠いイギリス(ブリテン島)の防衛なんてとんでもないという状況だったわけだ。
そして、守るべき兵士たちもいなくなったハドリアヌスの長城(城壁)の石材も、教会や農家を建てるために持ち去られてしまったんだそうな。
イングランド、スコットランド、ウェールズなど
しかし、ハドリアヌスの長城(城壁)が崩れていっても、古代ローマ帝国の支配下にあったブリテン島南部とケルト系の人々が独立を維持していた北部のスコットランド、ブリテン島西部のウェールズ、そしてイングランド南西部のコーンウォールなどは異なる歴史の道を歩んでいった。
今のイギリス(連合王国)においても、各々の地域・人々の関係は微妙だったりするんだよね。故にラグビーやサッカーのチームもイギリス統一チームが結成されないわけだ。但し、イギリスの首都ロンドンには、イングランド各地のみならず、スコットランド・ウェールズ・コーンウォールなどブリテン島各地の人々が集まっているんだけどね。
ついでながら、ロンドンの大英博物館の中の古代ローマ関係の展示の中には、ハドリアヌスの長城(城壁)を築いた皇帝ハドリアヌスの彫像もある。
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