カンタベリー大聖堂の大司教ボールドウィンイングランド南部の中心都市カンタベリーにあるカンタベリー大聖堂といえば、ヘンリー8世が組織した英国国教会の総本山でもあるし、聖アウグスティヌスから続く長い歴史と高い格式を持つ大聖堂だよね。右の画像はカンタベリー大聖堂にあるステンド・グラスの一部なんだ。 スコラ哲学の父アンセルムス、イングランド征服王ウィリアム1世が大司教としたランフランク、ウィリアム1世の息子たちのウィリアム2世やヘンリー1世たちのステンド・グラスと並んでいる。 右の画像のこの人物はカンタベリー大司教ボールドウィン。といっても、ただの大司教じゃなかったらしい。 西暦1190年にイングランドのリチャード獅子心王と共に第三回十字軍に参加し、聖地近くで命を落としたという大司教なんだそうな。
十字軍と聖地とサラディンことの始まりはイスラムの英雄サラディンだった。西暦1187年、ヒッティンの戦いにおいて、サラディンに敗れた十字軍の主力が壊滅した。勢いに乗ったサラディンは、聖地エルサレムまでも占領し、キリスト教諸国に強烈なショックを与えたらしい。そしてキリスト教諸国では再び十字軍を組織する動きが活発になった。各地のキリスト教の聖職者たちが十字軍への参加を呼びかける説教を行ったんだそうな。 そんな聖職者の一人だったカンタベリー大司教ボールドウィンは、ウェールズで十字軍兵士を募集することを思いついた。中世のウェールズは優秀な弓矢の射手で有名だった。 ちなみに、十字軍に参加するには、多額の費用がかかる上に命を危険にさらすことでもあった。しかも、いったん参加を誓えば、それを取り消すことはとっても難しかったらしい。でも、十字軍に参加すれば、略奪をする機会もあるし、税の免除もある。更に過去の罪を教皇が許してくれる。しかも、もし十字軍の戦いで戦死すれば、天国が約束されたんだそうな。 他方で、ボールドウィンがウェールズへの同行を頼んだのが、ジェラルド・オブ・ウェールズだった。ウェールズに生まれたジェラルドは、ノルマン貴族の血とウェールズの土着の豪族の血を共にひく聖職者であり、ウェールズで十字軍兵士を募集する旅を共にするには最適の人物だった。
ウェールズ南部西暦1188年3月初旬、カンタベリー大司教ボールドウィンやジェラルド・オブ・ウェールズたちの一行は、イングランド西部にあり、ウェールズ国境にも近いヘレフォードを出発した。彼らはまずはウェールズ南部の内陸部を西へ進み、まずはブレコンへと向かった。今のブレコン・ビーコンズ国立公園の山々の中を一行は歩いたんだろうね。 彼らは各地の有力者と会い、十字軍への参加を呼びかける説教を行い、ミサに参加しながら、進んでいった。やがて南下して海辺に出た彼らは、カーディフを通過し、その近くにあるスランダフ大聖堂(下の画像)でも説教を行い、ミサに参加したらしい。
ついでながら、カンタベリー大司教ボールドウィンは、ウェールズ各地の大聖堂で説教を行うことによって、カンタベリー大司教がウェールズのキリスト教会に対して指導的な地位に立つことを示したいという期待も持っていたんだそうな。
ウェールズ北部やがてカンタベリー大司教ボールドウィンの一行はウェールズ北部へと入る。早くからノルマン貴族が支配を打ち立てたウェールズ南部と違って、ウェールズ北部はまだまだ土着のケルト系の豪族が独立的な支配を維持していたんだ。その中心はスノードニアの山々を砦とも頼むグウィネズ王国だった。そんなウェールズ北部が平定されるのは、イングランド王エドワード1世がカーナフォン城やコンウィ城を築いてからだった。大司教ボールドウィンがウェールズを旅してから100年ほど後のことなんだけどね。
やがて、カンタベリー大司教ボールドウィンたちは、ウェールズ北部にあるバンガー(バンゴール)に到着した。彼らはバンガー大聖堂(上の画像)や、近隣のアングルジーなどの土地で十字軍への参加を求める説教を行い、ミサに参加したんだそうな。
チェスターウェールズ北部から東へと向かったカンタベリー大司教ボールドウィンたちの一行は、西暦1188年4月半ばにイングランド領内のチェスターに到着した。ディー川のほとりのチェスターは、ブリタニア(イギリス)に進出した古代ローマ帝国によって作られた城砦都市であり、総督アグリコラがウェールズ支配の要とした街だった。
そんなチェスターの街にあった聖ワーバラの修道院(今のチェスター大聖堂・・・上の画像)で、大司教ボールドウィンたちはイースター(復活祭)のミサに参加したらしい。
カンタベリー大司教ボールドウィンと第三回十字軍大司教ボールドウィンたちの旅と説教の成果として、ウェールズでは三千人ほどの十字軍参加者を得たらしい。ところが、十字軍の中核となるべきイギリスとフランスが戦争を始めちゃった。しかも、イングランド王ヘンリー2世と後に獅子心王と称される王子リチャードたちが内戦まで始める始末。なかなか十字軍は出発することができなかったんだ。それでも西暦1190年には第三回十字軍が遠征に出発するところまでこぎつけた。カンタベリー大司教ボールドウィンも参加していた。でも、その年の秋には、大司教ボールドウィンは聖地近くで亡くなっている。 イングランドのリチャード獅子心王は翌年には十字軍に合流した。そんなリチャードに対する戦いでサラディンは敗れたこともあった。でも、聖地エルサレムを十字軍が奪還することはできなかったんだそうな。そしてイングランドのリチャード獅子心王は西暦1192年に帰還の途についた。(イングランドに帰国するまでに色々とあったけど、それはまた別の機会に。)
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