ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1154年、ロンドンでプランタジネット家のヘンリー2世のイングランド王としての戴冠式が行われた。(イギリス)


ヘンリー2世の戴冠とプランタジネット朝イングランド

イングランド(イギリス)の首都ロンドンのウェストミンスター・アビー(寺院) 西暦1154年12月19日、イングランド(イギリス)の都ロンドンウェストミンスター・アビー(右の画像)で、イングランドからピレネー山脈までを支配するプランタジネット家のヘンリー2世の戴冠式が行われた。

イングランド王を称していたスティーヴン(ウィリアム征服王の孫)を撃ち破って王位継承者となり、そのスティーヴンが亡くなった後のイングランド王即位だった。

ついでながら、プランタジネット家のヘンリー2世はウィリアム征服王の曾孫にあたる。ヘンリー2世の母はマティルダ、その父親はウィリアム征服王の息子のヘンリー1世だった。

アンジュー伯・ノルマンディー公・イングランド王となった
プランタジネット家のヘンリー

ヘンリー2世の父ジョフロワは、元々はフランスのアンジュー伯だったんだけど、その妻のマティルダ(上にも書いたけど、イングランド王ヘンリー1世の娘でウィリアム征服王の孫)の相続権を主張し、西暦1144年にはノルマンディーを占領し、ノルマンディー公を称した。(下の画像は現在のフランス北部ノルマンディー地方の風景。)

フランス北部ノルマンディー地方の風景

余談ながら、そのアンジュー伯はエニシダ(金雀児=プランタジネット)の枝を兜にさしていたことから、ジョフロワ・プランタジネットと呼ばれていた。

西暦1151年、ヘンリー2世は父のジョフロワからノルマンディー公の地位を継承。父の死後にはアンジュー伯の位を相続し、更にフランス王ルイ7世と別れたエレアノールとの結婚によってアキテーヌ地方(フランス南西部)をも手に入れた。

そして、西暦1153年、イングランドに進攻したヘンリー2世は、イングランド王を称していたスティーヴンを撃ち破り、既に嫡子を亡くしていたスティーヴンに王位継承権を認めさせたわけだ。

イングランド王ヘンリー2世とスコットランド・ウェールズ

王位継承権を認めさせたスティーヴンが亡くなり、イングランド王となったプランタジネット家のヘンリー2世は、スコットランド王を戦いで屈服させ、臣従させている。(下の画像はスコットランドエディンバラ城。)

イギリスのスコットランドのエディンバラ城を見上げた

更には、ウェールズにおいて強まりつつあった独立回復の動きも抑えつけている。

ヘンリー2世とアイルランド、そして・・・

以上に加え、西暦1167年にはヘンリー2世の臣下のノルマン貴族たちがアイルランドに進出し、西暦1171年には彼自身もアイルランドに上陸し、息子のジョン(後の失地王)をアイルランド卿としている。

アイルランドの首都ダブリンにあるダブリン城のレコード・タワー

以後のイングランド王たちは、ダブリンを中心としてアイルランド統治(紆余曲折はあったけど・・・)を進めていったんだ。ちなみに、上の画像はダブリン城に残るレコード・タワーなんだけど、13世紀初頭の姿を今に残しているんだそうな。

しかしながら、ヘンリー2世は西暦1170年にはイングランド南部にあるカンタベリー大聖堂大司教トマス・ベケットの殺害を惹き起こし、息子たち(後のイングランド王リチャード獅子心王ジョン失地王)にも背かれて、孤独な死を迎えたんだそうな。

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