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西暦1156年、バーベンベルク家のオーストリア大公領が成立した。
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オーストリア最初のシトー派修道院 ハイリゲンクロイツ修道院
まだ春浅い4月、オーストリアの首都ウィーンの郊外を車で走る。やがて、雪の残る丘の合間に見えてくるハイリゲンクロイツ修道院(下の画像)。この西暦1135年に創設された修道院は、オーストリアでも最初のシトー派修道院なんだ。
この修道院を創設したのは、オーストリア辺境伯レオポルト3世だった。バーベンベルク家出身のレオポルト3世は、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ5世の妹のアグネスと結婚し、更にはウィーンの街を獲得し、バーベンベルク家の権威を高めたんだそうな。
バーベンベルク家のオーストリア辺境伯領
でも、オーストリアといえば、頭に浮かぶのは有名なハプスブルク家だよね ?? じゃあ、バーベンベルク家っていったい何なんだ ??
話は西暦962年に遡る。その年、ザクセン朝のオットー1世が今のイタリアの首都ローマを拠点としていたローマ教皇によって皇帝の位を認められ、神聖ローマ帝国が成立したんだ。オットー1世は、後にハンガリー王国を築くことになるマジャール人を撃ち破ったことで知られているよね。
皇帝となったオットー1世は、マジャール人によって荒廃させられた帝国南東部の再建と防衛のために、辺境伯領(マルク)を設置した。その一つがオーストリア辺境伯領の元となったわけだ。但し、10世紀末頃のオーストリア辺境伯領は「オスタルリキ」と呼ばれていた。今のオーストリアという国名の元となったラテン語の「アウストリア」という名前が登場するのは、西暦1147年のことなんだそうな。
そして、西暦976年にドナウ川流域の辺境伯に任じられたリウトポルトなる人物がいた。彼こそはバーベンベルク家の御先祖様だったんだ。以後、バーベンベルク家がオーストリア辺境伯領を支配していくわけだ。
オーストリア辺境伯領内の貴族たち
ところが、当時のオーストリア辺境伯領内には、自立的な貴族・豪族たちが割拠しており、辺境伯の権力は必ずしも強くはなかった。そこでオーストリア辺境伯レオポルト3世はシトー派の修道院の設立などによって教会勢力を強化し、貴族勢力の力を抑えようとしたんだそうな。
そんなオーストリア辺境伯領内の代表的な貴族が、リヒテンシュタイン家かな。彼らはバーベンベルク家時代のオーストリアにおいても勢力を持つ貴族だったんだ。(下の画像は現在も残るリヒテンシュタイン城の様子。)
但し、次第にオーストリア辺境伯に従属して言ったリヒテンシュタイン家は、ハプスブルク家のオーストリア大公の有力な家臣となり、ハプスブルク家が帝国を失った後も、オーストリアとスイスの間に公国を保っているんだけどね。
バーベンベルク家のオーストリア大公領成立
西暦1138年、シュタウフェン家のコンラート3世がドイツ王(神聖ローマ皇帝)に選出された。彼は対立するヴェルフェン家のハインリヒ倣岸公からバイエルン公国を奪い取り、それをバーベンベルク家のオーストリア辺境伯レオポルト4世に与えたんだ。
ところが西暦1152年にドイツ王となったシュタウフェン家のフリードリヒ1世は、ヴェルフェン家と和解するために、ハインリヒ倣岸公の息子のハインリヒ獅子公にバイエルン公国を返しちゃった。(ドイツ王も無責任なことをするよね。政治家には珍しくないことかもしれないけど。)
もちろん、バーベンベルク家のオーストリア辺境伯ハインリヒ・ヤゾミルゴットは黙っちゃいない。バーベンベルク家とヴェルフェン家との間に戦争が始まっちゃった。
結局、西暦1156年のレーゲンスブルクの帝国議会で手打ちが成立し、バイエルン公国はヴェルフェン家の手に戻り、見返りにバーベンベルク家の辺境伯位は格上げされて、オーストリア大公位とされたんだ。ここにバーベンベルク家のオーストリア大公領が成立するわけだ。
余談ながら、十字軍の遠征から故国に戻ろうとしたイングランド王リチャード1世(獅子心王)を西暦1191年に捕らえて神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に引き渡したのは、バーベンベルク家のオーストリア大公レオポルト5世なんだ。
バーベンベルク家の断絶と プシェミスル家・ハプスブルク家
オーストリア大公家として勢力を拡大していったバーベンベルク家なんだけど、西暦1246年には断絶してしまう。ハンガリーとの戦いに赴いたオーストリア大公フリードリヒ2世が、後嗣を残さずに戦死してしまったんだ。
その後、オーストリア大公に選出されたのは、ボヘミア(現チェコ)の支配者プシェミスル家のプシェミスル・オタカル2世だった。
ところが、西暦1273年にはハプスブルク家のルドルフがドイツ王(神聖ローマ皇帝)に選出された。ルドルフは旧バーベンベルク家の領地をプシェミスル家が不当に獲得したものとして、オーストリア大公領を奪い取ってしまった。
以後、オーストリア大公領を拠点としたハプスブルク家は、次第に勢力を拡大し、巨大な帝国を築き上げていったわけだ。(右の画像は今に見るウィーンの王宮の様子。)
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