ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦921年、プシェミスル家のヴァーツラフがボヘミア(チェコ)の大公となった。


マジャール人の攻撃によるモラヴィア崩壊

9世紀の初頭、現在のチェコとスロヴァキア付近に、スラヴ人の国家モラヴィアが建設されたんだ。その最初の君主モイミールは、ザルツブルク大司教座によるキリスト教布教を受け入れ、モイミール自身もカトリックの洗礼を受けたと考えられている。

ところが、西暦897年、隣接するカルパチア平原にマジャール人が侵入してきた。そして、西暦902年には、マジャール人の攻撃によって、スラヴ人の国モラヴィアが崩壊してしまった。(他方でマジャール人はカルパチアにハンガリー王国を建設することになる。)

プシェミスル家のボヘミア大公ヴァーツラフ

モラヴィアの崩壊後、混乱するボヘミア(現在のチェコ)では、プラハを拠点とするプシェミスル家が勢力を拡大していった。

チェコの首都プラハ市内にある聖ヴァーツラフ像 そして西暦921年、プシェミスル家のヴァーツラフがボヘミア大公となり、以後はプシェミスル家がボヘミア(現チェコ)を支配していくわけだ。(但し、ヴァーツラフ大公はザクセン家の東フランク王ハインリヒ1世の宗主権を認めていたらしい。)

西暦929年(あるいは935年)にボヘミア大公ヴァーツラフは、弟のボレスラフ1世によって暗殺されてしまう。でも、ボヘミア大公ヴァーツラフは、後にボヘミアの守護聖人とされ、聖ヴァーツラフと呼ばれるんだ。(右の画像は、現在のチェコの首都プラハにあるヴァーツラフ広場で見ることの出来る聖ヴァーツラフ像。)

プラハ城内の聖ヴィート教会(チェコ)

チェコの首都プラハ市内にある聖ヴィート教会 ザクセン家の宗主権を認めたボヘミア大公ヴァーツラフは、ザクセンの聖人ヴィートの遺骨の一部を譲り受けて、プラハ城内に聖ヴィート教会を建てた。

右の画像は現在の聖ヴィート教会の様子なんだけど、聖ヴィート教会は西暦1344年に改築されているから、ボヘミア大公ヴァーツラフの頃の姿を残してはいないんだろうね。

余談ながら、現在のヴィート教会では、アルフォンス・ミュシャのステンド・グラスを見ることも出来るよ。

その後のプシェミスル家とボヘミア(チェコ)王位

その後もボヘミア大公位を保ち続けたプシェミスル家は、ボヘミア国内の有力貴族を抑え、更に権力を強化していった。そして西暦1085年には、プシェミスル家のボヘミア大公ヴラチスラフ2世に、一代限りの王位が認められたんだ。(あくまでも一代限りで、世襲できない王位だったけど。)

西暦1190年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が亡くなり、皇帝位をめぐってのシュタウフェン家とヴェルフェン家との対立が激しくなった。ボヘミア大公プシェミスル・オタカル1世は、シュタウフェン家を支持した。

やがてシュタウフェン家のフリードリヒ2世が神聖ローマ皇帝となり、西暦1212年にプシェミスル家に世襲的なボヘミア王位を認めたんだ。

プシェミスル家の断絶とルクセンブルク家

その後はボヘミア(チェコ)の王位を継承し続け、一時はオーストリア大公位やハンガリーやポーランドの王位さえも獲得したプシェミスル家。ところが、西暦1306年にボヘミア王ヴァーツラフ3世がポーランド遠征の途中で暗殺され、ボヘミア王家たるプシェミスル家は断絶してしまった。

その後のボヘミア王位は一時的にハプスブルク家の手を経てルクセンブルク家に移り、西暦1346年にはルクセンブルク家のカレル1世がボヘミア王となった。このボヘミア王カレル1世は、後に神聖ローマ皇帝カール4世となり、ボヘミアの首都プラハは神聖ローマ帝国の都ともなったんだ。

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