古代ギリシャ人がイタリア南部に築いた街ポセイドニア古代の地中海を制覇したといえば、古代ローマ帝国が頭に浮かぶよね。もちろん、ポエニ戦争の後のことになるんだけど。でも、紀元前600年頃の古代ローマは弱小で、しかもエトルリア人の王によって支配されていたんだ。(古代ローマがエトルリア人の王を追放したのは紀元前509年。)他方、その頃の地中海西部で勢力を拡大していたのは古代ギリシャ人だった。彼らはシシリアに進出し、今のフランス南部プロヴァンス地方の港町マルセイユに定住し、やがてはイタリア南部にナポリ(当時はネアポリス)をも築いていった。 そんな古代ギリシャ人が紀元前600年頃にイタリア南部に築いた街がポセイドニアだった。その街はやがてパエストゥムと呼ばれたんだけど、その遺跡が今の世界遺産パエストゥムだよね。
ポセイドニアの街を築いた古代ギリシャ人は、いくつもの神殿を建立している。その一つが紀元前5世紀後半に建立されたヘラ第二神殿(上の画像)なんだ。但し、この神殿は19世紀にはネプチューン神殿だとされていたらしいけどね。
ポセイドニア(パエストゥム)で見た地下神殿ポセイドニアの遺跡(世界遺産パエストゥム)には、下の画像にある半分が地下に埋まる「地下神殿」と呼ばれるものもある。後に古代ローマが整備した聖なる道の脇で見ることが出来るんだけどね。この地下神殿、ポセイドニアの街を築いた人物を祀っているという説もあるらしいけど、定かではないんだそうな。
ついでながら、上の画像の左手奥にも神殿が見えるよね。あれはアテナ女神神殿なんだそうな。紀元前500年頃に建立されたもの。19世紀の学者たちはこのアテナ女神神殿をケレス神殿としていたらしいよ。
世界遺産パエストゥム遺跡に見るヘラ第一神殿ポセイドニアの遺跡(世界遺産パエストゥム)には、まだ古代ギリシャ人の神殿が残っている。それが下の画像のヘラ第一神殿。紀元前6世紀半ばの建立だそうな。でも、19世紀にはこの建物はバシリカとされていたとか。
ポセイドニア(パエストゥム)では、他にも古代ギリシャ人の残した遺跡を見ることが出来る。例えば集会場。古代ギリシャ時代には、ここに成人男性市民全員が集まり、様々な事柄について話し合ったんだそうな。
パエストゥム国立考古学博物館で見た飛び込み男のフレスコ画このポセイドニアの遺跡の脇には、パエストゥム国立考古学博物館がある。そこでは遺跡から発掘された様々な出土品を見ることが出来る。下の画像は近くで発見された「飛び込み男の墓」で発掘されたフレスコ画なんだけど、保存の良い古代ギリシャ時代のフレスコ画は貴重なんだそうな。
紀元前273年に古代ギリシャ人の街ポセイドニアは古代ローマの支配下に入りパエストゥムと呼ばれた。この国立考古学博物館では、古代ローマ支配下のパエストゥムの出土品も見ることが出来るんだ。
古代都市ポセイドニア(パエストゥム) ・・・ その後古代ギリシャ人によって紀元前600年頃に築かれた後、灌漑工事を行いながら市域は拡大し、ポセイドニアは発展していった。その経済的な繁栄の結果が、今に残るいくつもの古代神殿の建立だった。でも、紀元前510年頃に母市シバリ(同じくイタリア南部にあるギリシャ系都市)が破壊され、ポセイドニアの繁栄にも翳りが見え始めた。 紀元前400年頃、ルカニア人がポセイドニアの街を征服し、街はパイストンと呼ばれるようになった。また、紀元前4世紀の後半には、あのアレクサンダー大王の叔父にあたるエピルス王アレクサンダーがポセイドニアに攻め寄せたという説もある。 その後、西暦273年には古代ローマによって植民市とされ、その名をパエストゥムと改められた。ローマ人たちは、古代ギリシャの神殿の傍らにローマ風のフォロ(広場)や円形劇場などを築いたんだ。 紀元前73年に起こった剣闘士スパルタクスの乱に際しては、戦火がパエストゥムにも及んだらしい。その頃から、パエストゥムは次第に衰退し始めた。また、キリスト教が広まってからは、古代ギリシャ時代の神殿もキリスト教の教会として使われたんだそうな。 そして西暦476年、西ローマ帝国が滅亡した。その頃からパエストゥム周辺は地盤沈下によって湿地となり、マラリアが流行して人口が減り始めた。更にゴート族やロンバルディア族の侵入が街の衰退に追い討ちをかけ、西暦8−9世紀にはパエストゥムの街は完全に見捨てられたそうな。
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