ニースに生まれたイタリア統一の英雄ジュゼッペ・ガリバルディ西暦1807年、地中海に面したコート・ダジュールの街ニースでジュゼッペ・ガリバルディという男の子が生まれた。この人物がやがて統一イタリア王国成立の英雄となる。下の画像は、そのガリバルディの故郷ニースの旧市街にあるサン・マルタン・サン・オーガスタン教会。生まれて間もないジュゼッペ・ガリバルディは、この教会で洗礼を受けたんだそうな。
ちなみに、ニースと言えばフランス南部を代表する観光地だよね。でも、この街がフランス領となったのは最近の話。そもそもはニースはフランス王と対立していたサヴォワ公家の領地だったんだ。
ガリバルディと青年イタリア運動、そしてローマ共和国貿易関係の仕事をしている家に生まれたジュゼッペ・ガリバルディ。やがて商船に乗り込み、海外各地に出かけるようになった。そんなガリバルディがロシアで活動していた青年イタリア運動のメンバーと出会い、やがてガリバルディ自身も青年イタリア運動に参加していった。当時のイタリアはローマを中心とする教皇領、フィレンツェを中心とするトスカナ公国、南部のナポリを中心とする両シシリア王国、北東部のヴェネツィア、北西部のサルディニア王国などに分裂していた。しかも、ハプスブルク家のオーストリアなどの強い影響下にあった。そんなイタリアを統一し、外国の影響力を排除し、共和主義的な政府を樹立しようというのがマッツィーニを中心とする青年イタリア運動だった。 そして西暦1834年、27歳のガリバルディはイタリア北西部ピエモンテで反乱に参加した。でも。反乱はあっけなく失敗し、ジュゼッペ・ガリバルディは海外に逃れ、やがて南米へと向かった。その南米で独立戦争などに参加し、彼はゲリラ戦のノウハウを習得したらしい。 西暦1848年、フランスの首都パリで二月革命が起こり、その影響が各地に波及していった。イタリアにおいてはローマにあるヴァティカンの教皇庁からローマ教皇ピオ9世が脱出し、青年イタリア運動のリーダーだったマッツィーニを指導者とするローマ共和国が成立した。(下の画像はヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂。)
そのローマ共和国に参加していたジュゼッペ・ガリバルディは、義勇兵を率いてフランス軍を撃ち破っている。しかしながら、やがて態勢を立て直したフランス軍はローマを奪還し、教皇ピオ9世を復帰させて教皇領を復興させている。
赤シャツ隊を率いたガリバルディがナポリを占領その後、ハプスブルク家と戦う為にフランス皇帝ナポレオン3世の協力を得たサルディニア王家は、西暦1859年にオーストリアと戦い、紆余曲折はあったものの最終的にはミラノを中心とするロンバルディア地方やフィレンツェを中心とするトスカナ地方を獲得した。青年イタリア運動ではなく、サルディニア王家によるイタリア統一に可能性を見たジュゼッペ・ガリバルディは、義勇軍を組織してサルディニア王家の側で戦い、オーストリア軍部隊を撃ち破ったらしい。明けて西暦1860年、シシリアで反乱が起きた。千人ほどの義勇兵(赤シャツ隊)を集めたジュゼッペ・ガリバルディは、シシリアに上陸。反乱軍を味方につけたガリバルディはナポリ王家の軍を撃ち破り、ついにシシリア全土を占領している。
更にシシリアからイタリア本土に渡ったジュゼッペ・ガリバルディは、ナポリ王の本拠であるナポリをも占領している。(上の画像はナポリの王宮前にあるプレビシート広場の様子。)
ガリバルディとイタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世そんなこんなでジュゼッペ・ガリバルディがシシリアとナポリを占領した西暦1860年、サルディニア王国は支援に対する見返りとしてニースをフランスに割譲していた。自分の故郷であるニースをフランスに引き渡したサルディニア王国の首相カヴールに対して、ジュゼッペ・ガリバルディは激怒していたらしい。しかしながら、サルディニア王家によるイタリア統一は既に現実味を帯びつつあった。その年の10月、サルディニア王ヴィットリオ・エマウネーレ2世と会談したガリバルディは、「テアーノの握手」によって、自分が征服したシシリアやナポリをサルディニア王に献上している。(但し、実際にはその会談の前にナポリやシシリアの住民投票においてサルディニア王国への併合が決まっていたらしい。)
そして翌年の西暦1861年、統一イタリア王国が成立し、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世がイタリア王となったわけだ。(上の画像はローマのヴェネツィア広場に面して立つイタリア王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の騎馬像。)
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