ヴェルサイユ宮殿でフランス王ルイ16世主宰の三部会西暦1774年にフランス王ルイ16世が即位した2年後、イギリスの植民地だったアメリカの諸州が独立を宣言し、独立戦争が始まった。更に2年後の西暦1778年にはフランスがアメリカ独立を支援してイギリスとの戦争を始めた。そんなこんなでアメリカは独立を果たしたわけだ。そしてフランスには巨額の財政赤字が残された。といっても、フランスの財政赤字は戦争ばかりしていた太陽王ルイ14世の頃から膨らんでいたんだけどね。
ともかくフランスの財政赤字をなんとかすべく、フランス王ルイ16世が西暦1789年に5月にヴェルサイユで三部会を開催したんだ。(上の画像はルイ14世が造営したヴェルサイユ宮殿の鏡の間。この部屋で三部会を開いたわけじゃないだろうけどね。)
フランス革命とアンヴァリッド 廃兵院の武器弾薬そんな平民たちによる国民議会の動きに対して、フランス王ルイ16世は軍に集結を命じたらしい。そんな動きについて、パリの市民たちはルイ16世は平民たちの動きを軍事的に制圧しようとしていると考えた。そして西暦1789年7月、フランスの首都パリにおいて多くの人々がアンヴァリッド 廃兵院に集ってきた。(下の画像はアンヴァリッド 廃兵院のドーム教会のドーム。この下にナポレオンのお墓がある。)
その人々の多さに、アンヴァリッドの守備隊は抵抗もせず、要求されるままに保管してあった武器弾薬を渡したんだそうな。
ヴェルサイユ行進とルイ16世の宮廷のパリ移転西暦1789年10月、食糧不足に苦しむパリの女性たちが立ち上がった。ヴェルサイユ宮殿にいるフランス王ルイ16世に食糧を求める直訴をする為に、パリの女性たちがヴェルサイユに向かった。武器を持った市民たち2万人も女性たちの後に続いたらしい。(いわゆる「ヴェルサイユ行進」。)
ヴェルサイユに到着した人々は、フランス王ルイ16世たちをパリへと連れ帰った。そんなわけでルイ16世の宮廷はパリのテュイルリー宮殿(その庭園が上の画像)に移ったわけだ。
この時、ヴェルサイユ宮殿にいた人々の中には、後にイギリスの首都ロンドンにマダム・タッソー蝋人形館をオープンしたマダム・タッソーもいた。彼女もフランス革命に翻弄されたんだけど、それを乗り切ってロンドンに渡っていったわけだね。
フランス革命と教会財産の国有化人権宣言は採択されたもののフランスが直面する巨額の財政赤字の問題は解決されていない。その財政問題の解決の為に、西暦1789年11月には教会財産が国有化された。(もちろん、ローマの教皇庁は納得していないけどね。)パリのノートルダム大聖堂も国有化されて閉鎖され、食糧貯蔵庫として使われたらしい。(下の画像はそのパリのノートルダム大聖堂のバラ窓のステンド・グラス。)
パリ郊外にあるサン・ドニ大聖堂にはフランス王家の墓所があったんだけど、その王家の墓所も破壊されたんだそうな。
フランス全土に広がったフランス革命の火パリで燃え上がったフランス革命の火は、ただちにフランス全土に広がっていった。例えば、アルザス地方の中心都市ストラスブールには、7月19日にアンヴァリッド(廃兵院)やバスティーユ監獄の襲撃の知らせが届き、街に溢れた人々が歓喜の声をあげたらしい。そのストラスブールの人々は、7月21日に蜂起し、群集が市庁舎に乱入した。そのストラスブール市庁舎の地下にはワイン・セラーがあり、公式行事用の高価なワインが保管されていた。暴徒化した人々はワインの樽を壊し、普段は飲むことのできない高級ワインをがぶ飲みしたんだそうな。(床に溢れたワインのせいで、酔っ払った市民二人が「溺死」した ・・・ なんて話もあるけど、本当かなあ。) いずれにせよ、フランス革命はまだ始まったばかり。フランス革命はこれからドラマを生み出し、フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの処刑やナポレオンのフランス皇帝即位などにつながっていくわけだ。
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