ポルトガル女王マリア1世の肖像画ある年の春、ポルトガルのケルス宮殿を訪れたことがある。ポルトガルにおいては、フランスの首都パリの郊外に太陽王ルイ14世が造営したヴェルサイユ宮殿にもなぞらえられる宮殿なんだそうな。
そのケルス宮殿の中で見かけたのが、上の画像にある肖像画だった。ポルトガル女王マリア1世の肖像画か。その時には女王マリア1世についての知識もなく、特に考えもなくその肖像画を撮影したんだ。
ポルトガル女王マリア1世の即位西暦1734年に生まれたマリア1世が13歳の年、父であるポルトガル王ジョゼ1世が造営を始めたのが、下の画像にあるケルス宮殿だった。ところが、西暦1755年にポルトガルをリスボン地震が襲った。津波で亡くなった1万人を含む数万人が地震で犠牲になったらしい。その地震の後、父王ジョゼ1世は閉所恐怖症にもなってしまったんだそうな。
その父王が亡くなった西暦1777年、ポルトガル女王マリア1世が即位した。彼女の統治下でケルス宮殿はポルトガル王家の王宮とされている。
マリア1世統治下のポルトガルの混迷ポルトガル女王となったマリア1世が最初に行ったことは、父王ジョゼ1世が全幅の信頼を置いていたポンバル侯爵を更迭することだった。リスボン地震からの復興を成し遂げたポンバル侯爵だったけど、やがて独裁者となっていた。そんなポンバル侯爵をマリア1世は嫌い、直ちに遠ざけたわけだ。(下の画像はポルトガルの首都リスボン市内にあるポンバル侯爵広場に立つポンバル侯爵の像。)
でも、マリア1世はポンバル侯爵の経済政策などを踏襲したんだけど、その結果としてポルトガルの経済は好調の波に乗りつつあったらしい。ところが、西暦1786年には女王が正気を失うという事件が起こっている。続いて西暦1791年には彼女の長男が若くして亡くなり、彼女の精神状態は更に悪化してしまった。 半島戦争とブラジルに逃れたポルトガル女王マリア1世ところが、西暦1807年、フランス皇帝ナポレオンの将軍ジュノーの指揮下のフランス・スペイン連合軍がポルトガルに侵攻してきた。ポルトガルは抵抗することも出来なかった。女王マリア1世をはじめとする王室の人々や貴族や役人たち、総計1万人もの人々がポルトガルを出て植民地ブラジルに逃れた。その船団を護衛したのは、同盟国のイギリス艦隊だった。翌年の西暦1808年、スペイン王カルロス4世の廃位をきっかけとして、スペインでもフランスに対する独立戦争が始まった。その動きに呼応してポルトガルに上陸したのがアーサー・ウェルズリー卿(後のウェリントン公)の率いるイギリス軍だった。イギリス・ポルトガル連合軍は戦いに勝利をおさめ、フランス軍を撤退を余儀なくさせた。
その後もフランス軍は何度かポルトガルに侵攻してきた。しかし、イギリス軍・ポルトガル軍との戦いに敗れ、撤退している。(上の画像はイギリスの首都ロンドンの金融街シティに立つアーサー・ウェルズリー卿、すなわちウェリントン公の騎馬像。)
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