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西暦 1815年、ワーテルロー(ウォータールー)の戦いに敗れたナポレオンの百日天下が終わり、再びブルボン家の王政が復活した。
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フランス皇帝ナポレオンの再起
西暦1814年に退位しエルバ島に流されたナポレオン。でも、ウィーン会議は踊るばかりで進まず、ブルボン家のフランス王ルイ18世による復古王政が必ずしもフランス国民に支持されていないのを見てとったナポレオンは、西暦1815年3月1日にエルバ島を脱出してフランスに戻ってきた。
地中海岸からフランスの首都パリに接近するナポレオンは、次第に支持者を集めていき、ブルボン家の王ルイ18世はとうとうパリを脱出してしまった。
そして西暦1815年3月20日、ついにナポレオンがパリのテュイルリー宮殿に帰還を果たした。(上の画像はパリにあるテュイルリー庭園。かつてのテュイルリー宮殿の庭園だね。)
ワーテルローの戦いとウェリントン将軍
他方、ナポレオンのエルバ島脱出を知らされたウィーン会議中のヨーロッパ諸国代表は、西暦1815年3月13日にはナポレオンをヨーロッパから追放することを決定し、第7回対仏大同盟を結成したんだ。
その年の6月12日、首都パリを出発したナポレオンは、13万人のフランス軍と合流し、ベルギーのリニーで対仏大同盟軍を撃ち破っている。
しかし、それから一週間も経たない西暦1815年6月18日、ワーテルロー(ウォータールー)の戦いにおいて、ウェリントン将軍指揮下の対仏大同盟軍にナポレオン軍が敗れてしまったんだ。(上の画像はイギリスの首都ロンドンの金融街シティに立つウェリントン将軍の騎馬像。彼はフランス軍に対するポルトガルの防衛でも活躍した。)
その四日後の6月22日、フランス皇帝ナポレオンは二度目の退位を余儀なくされた。他方で7月8日にはブルボン家のルイ18世が再びパリに帰還し、二度目の王政復古を果たしている。
ワーテルローの戦いとウェリントン将軍と イギリス国債とロスチャイルド
ところで、何故にイギリスの英雄ウェリントン将軍の像がイギリスの首都ロンドンの金融街シティにたっているのかな ・・・ 。
当時のイギリスは、国債を発行することによってナポレオン戦争の軍資金を調達していたんだ。だから、もしワーテルローの戦いで負けていれば、英国国債が大暴落することになったはず。それをウェリントン将軍が救ったということで金融街シティに騎馬像が立っているみたい。(下の画像はロンドンの金融街シティの風景。)
そんなワーテルローの戦いと英国国債との関係を利用して大もうけしたのが、ネイサン・ロスチャイルドだった。ワーテルローの戦場からの情報をいちはやく入手するルートを確立していた彼は、戦いの直後に国債を売り始めたんだ。
ロスチャイルド家が国債を売り始めたのを見た市場関係者は、ナポレオンが勝ったものと考えて国債を売り始め、当然ながら国債は大暴落。ネイサン・ロスチャイルドはイギリス国債を底値で買い戻した。
そこへ飛び込んできたのがナポレオン敗北のニュース。イギリス国債は暴騰し、底値で国債を買い集めていたネイサン・ロスチャイルドは大もうけをしたわけだ。
戦争と金融ってとっても重要な関係にあるよね。ちなみに、上の画像の左半分に見えているのは、イングランド銀行なんだけど、このイギリスの中央銀行はフランス王ルイ14世太陽王が起こしたアウクスブルク同盟戦争を戦う為の資金調達の為に設立された組織だったりするんだ。
ナポレオンのセント・ヘレナ島流刑
フランス王家ブルボン家のルイ18世による二度目の王政復古がなされたのを見たナポレオンは、西暦1815年7月14日にイギリスへの亡命を希望した。しかし、イギリスはナポレオンをセント・ヘレナ島へ流刑することにしたんだ。
そのセント・ヘレナ島というのは、大西洋の中の絶海の孤島。最も近いアフリカまでの距離は1900kmもある。ここからならば如何にナポレオンでもヨーロッパに舞い戻ることはできないと考えたのかな。しかも、湿度が高くて暑くて住み難い場所なんだそうな。
西暦1815年10月16日、元フランス皇帝ナポレオンがセント・ヘレナ島に到着。イギリス軍の監視下におかれた彼は、わずかな部下に自伝を口述筆記させながら囚われの日々を過ごすことになる。
それから5年半が経った西暦1821年5月5日、ナポレオンが亡くなった。毒殺説もあるけど、死因は胃ガンだったというのが通説かな。彼の一族には胃ガンで亡くなった人が多いんだそうな。
そして西暦1840年、ナポレオンの亡骸がパリに帰還し、エトワール凱旋門をパレードした。改葬されたナポレオンのお墓は、パリを流れるセーヌ川の南岸のアンヴァリッド 廃兵院にある。
その後のウェリントン将軍
他方でイギリス側の英雄ウェリントン将軍は初代ウェリントン公爵となり、更には首相となった。首相としての彼の足跡としては、西暦1829年にカトリック教徒解放法を成立させたことかな。この法律は当時イギリスの統治下にあったアイルランドの多数派のカトリック教徒の求めに応じるものだった。(その指導者がアイルランドの首都ダブリンのオコンネル通りに像の立つダニエル・オコンネルだった。)
でも、法律の発効については、イギリス国王ジョージ4世は消極的だったらしい。そんな国王を説得したのが首相のウェリントン公爵だった。彼は辞任をちらつかせて国王を脅し、法律の発効を認めさせたんだそうな。そんなカトリック教徒解放法はダブリンの多数派を占めるカトリック教徒を喜ばせたんだろうね。ちなみに、ウェリントン公爵はダブリンで生まれたんだそうな。
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